江戸から明治・大正期まで劇場付近で観劇客に各種の便宜を供した施設。江戸期の芝居見物は早朝から夜までかかったうえ幕間も長く,劇場の設備も不十分で,より快適な観劇を望む客は多く茶屋を利用した。もっとも,上等席は茶屋が前もって押さえていたから,桟敷などで観劇するためには茶屋を通すほかなかった。芝居茶屋の構造は2階建て。軒にのれん,提灯がかかり,内部の座敷が表から見える造りになっていた。観劇のため早朝芝居茶屋に到着した客は休憩後茶屋の草履をはき劇場の桟敷席に案内される。茶屋の者が毛氈(もうせん),座布団,茶,煙草,番付を用意し,観劇途中にも菓子,口取肴など,中食には幕の内,上戸には酒肴,そのあと寿司,水菓子と次々に出す。幕間には茶屋で小用,化粧直し,着替えなどでき,閉幕後贔屓(ひいき)の役者を呼ぶなど,茶屋は至れり尽くせりだったが,経費も高額だった。一方,茶屋を通らずに木戸から入って出方に案内され,平土間で見物する中等の客も,酒肴は取らないまでも菓子,弁当,寿司だけは茶屋から取り寄せた。この三つの品の頭文字をいっしょにして〈かべす〉といい,〈かべすで見る〉〈かべすの客〉などと,質素な客を侮蔑的に表現した。
芝居茶屋は一面で,劇場の興行を支える重要な役割を担っていた。劇場の繁栄がただちに芝居茶屋の繁昌につながっていたからである。そのため,つねに座元と相談し,ときには金主ともなる。平生から顧客を大切にし,興行が替わるごとに辻番付を届けて桟敷の予約を受けるなど,心配りを怠らなかった。
芝居茶屋の起源は,1624年(寛永1)江戸で猿若勘三郎が櫓を上げたとき,和泉屋勘十郎が始めた掛小屋という。江戸,上方とも当時は炎天やにわか雨をしのがせ湯茶を供する程度の設備だった。これが芝居の木戸札を扱うようになり,おいおい乱立ぎみになってきた。資料の明確な大坂に例をとると,幕府は,一時74軒にもなったこれらの水茶屋を道頓堀から退去させ,92年(元禄5)改めて12軒の水茶屋を,5年後に46軒を追加して計58軒を公許した。これが〈いろは茶屋〉である。これとても道頓堀の浜納屋に三方よしず張り,床几で茶など出す程度。それがやがて庇(ひさし)を延長し,板で囲い,1758年(宝暦8)2階建ても許されて規模が整い始め,1800年(寛政12)ころには茶屋数も倍増するほどになった。江戸では文化・文政期(1804-30)に約150軒を数え,以後各自規模に応じた工夫を加えつつ消長を重ねた。明治期には,劇場の近代化や歌舞伎景気の後退等で茶屋数は激減。東京では大正の震災で廃絶,関西でも昭和期にプレーガイド化して終わった。
執筆者:青木 繁
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸時代から昭和初期に至るまで存在した歌舞伎(かぶき)観劇機関。江戸時代の劇場は座席のほかに付属設備がなく、幕間(まくあい)の休憩所も食堂もなかった。そこで、上等客が1日の芝居見物を楽しむことができるようにと、さまざまなサービスをしたのが芝居茶屋である。茶屋は桟敷(さじき)席の予約、食事の世話をはじめ、持ち物を預かり、さらに観劇後は贔屓(ひいき)俳優を招いてする酒宴の席にもなった。茶屋は2階建てで、軒に暖簾(のれん)・提灯(ちょうちん)をかけ、表の通りから座敷の内部が見通せるようにすることを義務づけられていた。
掛け茶屋が初期歌舞伎の時代に劇場周辺の空き地につくられたのに始まるが、しだいに規模が大きくなり、大茶屋・小茶屋の等級も生じた。江戸では明和(めいわ)年間(1764~72)中村座に大茶屋16軒、小茶屋15軒、市村座に大茶屋10軒、小茶屋15軒、森田座に大茶屋7軒があって隆盛を極めた。大坂では、道頓堀(どうとんぼり)に非常に数が増えたのを、幕府が退去させ、改めて1692年(元禄5)12軒を許可、その5年後に46軒を追加公認したため、あわせて58軒の茶屋があった。これがいわゆる「いろは茶屋」で、かならずしも48軒と定まっていたわけではなく、幕末にはさらに増加し、「前茶屋」とよばれるようになった。明治以後は、明治20年代に開場した歌舞伎座・明治座ともに11軒の茶屋があり、大阪の前茶屋も20軒ほど残っていたが、いずれも大正末から昭和初期にかけて消滅した。
[服部幸雄]
…遊郭には編笠茶屋,引手茶屋があり,茶屋と略称されることがあった。また芝居茶屋,相撲茶屋は,それぞれ歌舞伎劇場や相撲小屋に付属して案内や休息のために設けられたが,後年にはそれらの興行に参画する業者もあった。 このように多様に分化した茶屋は,明治以後の社会の変化と西欧の同種業態の移入に影響を受けて,喫茶店や食堂に変容するものがあったり,カフェーなどの新形態をも生み出す一方で,引手茶屋や芝居茶屋などのように,完全に消滅したものも少なくない。…
※「芝居茶屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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