剣豪宮本武蔵を主人公にした,吉川英治の長編小説。1935-39年東京・大阪の両《朝日新聞》に連載。全6冊として36-39年刊。青年武蔵(たけぞう)が功名心に燃えて幼友達の又八とともに関ヶ原合戦に参加し敗北を体験するところから始まり,沢庵を導師として人間的に開眼,剣禅一如の境地を求めて歩みつづけ,佐々木小次郎との船島(巌流島)での運命的な対決にいたる。お通との純愛,吉岡一門との決闘など小説のおもしろさをたっぷりと盛り込みながらも,柳生石舟斎や本阿弥光悦らとの出会いを通して武蔵の人間形成をたどっており,一種の成長小説としても読まれる。吉川英治は〈生涯一書生〉をモットーとしたが,剣の求道者としての武蔵像はその具象化であり,戦中・戦後を通じて広く愛読された。
執筆者:尾崎 秀樹
宮本武蔵を主人公にした映画は,吉川英治の小説が書かれる以前から,すでに数多く作られていた。日本映画の最初のスターである尾上松之助の演じた日活映画《宮本武蔵》(1914)から始まって(その後も日活で1921年と24年に松之助は《宮本武蔵》あるいは《宮本無三四》を演じている),尾上紋十郎(1915,天活),沢村四郎五郎(1921,松竹)といった〈旧劇〉すなわち時代劇のスターの十八番の一つとなり,片岡千恵蔵ふんする若き武蔵の旅で出会う女たちとの悲恋を描いた井上金太郎監督の抒情的な道中もの《宮本武蔵》(1929)もつくられた。しかし,吉川英治の原作を得て以来,《宮本武蔵》は単なる剣豪伝ではなく,剣の道ひとすじに生きる男・武蔵と恋ひとすじに生きる女・お通との対照をテーマとしてクローズアップさせて,時代劇の形を借りた青春映画の一つの典型として,さらに大きな人気を呼ぶこととなった。
〈吉川武蔵〉の最初の映画化は寛寿郎プロで滝沢英輔が監督した《宮本武蔵》(1936)で,嵐寛寿郎の武蔵,森静子のお通であった(キネマ旬報編《日本映画俳優全集・女優編》による)。同じ年に大都映画で水島道太郎が武蔵を演じ,次いで,日活で尾崎純が監督,片岡千恵蔵の武蔵,轟夕起子のお通による《宮本武蔵》(1937)が人気を呼び,そして同じ年にJOスタジオで黒川弥太郎主演の《宮本武蔵・風の巻》(1937)がつくられる。また,新興キネマでは森一生監督,大谷日出夫主演による《宮本武蔵》(1939)がつくられるが,〈吉川武蔵〉の名声を一躍高からしめたのは,日活で稲垣浩が監督した三部作《宮本武蔵・第一部》《同・第二部》《同・完結剣心一路》(1940-41)であり,片岡千恵蔵が武蔵を,宮城千賀子がお通を演じた。1942年には大都映画で近衛十四郎が武蔵を演じた佐伯幸三監督の〈快作〉として知られる《決戦般若坂》があるが,戦前・戦中の《宮本武蔵》のイメージを一身に背負ったのは片岡千恵蔵であり,43年に大日本映画製作株式会社(のちの大映)で伊藤大輔が監督した二部作《二刀流開眼》《決闘般若坂》でも武蔵を演じ,完全な当り役になった。この二部作では1937年版の轟夕起子,40-41年版の宮城千賀子に次いで,相馬千恵子が三代目のお通を演じた。
戦後も〈吉川武蔵〉は剣に生きるヒーローと恋に生きるヒロインの青春ドラマとして繰り返し映画化され,稲垣浩監督がカラーでリメークした三船敏郎の武蔵,八千草薫のお通による東宝作品《宮本武蔵》三部作(1954-56),内田吐夢監督,中村錦之助(のち萬屋錦之介)の武蔵,入江若葉のお通による東映作品《宮本武蔵》五部作(1961-65),加藤泰監督,高橋英樹の武蔵,松坂慶子のお通による松竹作品《宮本武蔵》(1973)と,いずれも力作として注目を浴びた。内田吐夢監督,中村錦之助主演の東宝作品《真剣勝負》(1971)も吉川英治の原作のエピソードの映画化である。そのほか,吉川英治の原作をもとにした新国劇の舞台を辰巳柳太郎,島田正吾主演で映画化したマキノ雅弘(現,雅裕)監督による松竹作品《武蔵と小次郎》(1952)などもある。溝口健二監督による松竹映画《宮本武蔵》(1944),渡辺邦男監督による大映映画《二人の武蔵》(1960)といった作品もあるが,前者は菊池寛原作,後者は五味康祐原作による。
執筆者:広岡 勉
江戸時代初期の剣豪。二天一流(円明流,武蔵流ともいう)剣法の祖。《五輪書》の著者。二天と号した。日本の剣道史上最も著名な剣豪の一人で,小説,舞台,映画などにもなっているが,伝記については必ずしも明らかではない。出生地についても,播磨(兵庫県)の宮本村説と美作(岡山県)吉野郡宮本村説がある。《五輪書》では播州の出生とする。父(養父とも)は新免無二斎。《五輪書》によれば,武蔵は幼少のころから兵法を心がけ,13歳ではじめて試合をして勝ち,28~29歳まで60余度の試合に一度も負けなかったといわれる。最後の試合は1612年(慶長17)武蔵29歳のとき,佐々木小次郎との巌流島の決闘であったらしい。30歳以後は,ひたすら剣理の追究,鍛練を重ね,50歳ころになって兵法の道を体得したという。40年(寛永17)57歳のとき,熊本城主細川忠利に招かれて客分となり,忠利の求めに応じ,二天一流兵法を《兵法三十五箇条》にまとめて呈している。43年10月から死の直前にかけて,岩戸山にこもって《五輪書》を書き上げたといわれる。45年(正保2)5月19日,同地で没した。
執筆者:中林 信二 武蔵は剣のほか書,画,彫刻などにも非凡な才があり,すぐれた作品を残している。とくに水墨画では,師承関係は明らかでないが,気魄のこもった鋭い表現を特色とし,武人画家の最後に位置する画家として着目される。東寺勧智院に武蔵の作と推定される水墨の襖絵が伝存しており,武人の余技を超えた本格的な作品である。代表作に《枯木鳴鵙(めいげき)図》(久保惣記念美術館)などがある。
執筆者:鈴木 廣之
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江戸初期の剣術家。わが剣道史上、異色の存在である二刀流(円明(えんめい)流、二刀一(にとういち)流、二天一(にてんいち)流、武蔵流)の祖。名は玄信、号は二天。伝記はいまなお不明なところが多く、出生地も播磨(はりま)説、美作(みまさか)説の両説がある。幼少から剣を好み、13歳のとき新当(しんとう)流の有馬喜兵衛(ありまきへえ)に勝ったのをはじめ、28~29歳のころまで諸国を歴遊して60回も勝負し、無敗であったという。なかでも京都における吉岡(よしおか)一門との争いや、小倉(こくら)沖の舟島における巌流(がんりゅう)佐々木小次郎(ささきこじろう)との試合は、伝説化された武芸談として、後世の巷談稗史(こうだんはいし)や演劇などの好主題となった。30歳半ばから40歳前後まで播州明石(ばんしゅうあかし)の小笠原家に客分として仕えたが、同家の小倉移封を嫌い、天下の兵法者としての処遇を求めて名古屋・江戸などを転々とした。しかし志を達せず、数年後、小笠原家に仕える養子の伊織(いおり)を頼って小倉に行き、島原の乱には親子で従軍して、足に重傷を負った。1640年(寛永17)の秋熊本に赴き、兵法好きの藩主細川忠利(ただとし)に「兵法三十五箇条」の覚書を上呈したが、わずか1か月後には忠利の急死という不運にあった。その後は世を捨て、家臣の有志に剣法を教えるほかは、忠利の菩提(ぼだい)所泰勝寺の大淵和尚(だいえんおしょう)や春山(しゅんざん)らと交友を結び、禅の修養に努め、また書画、彫刻にも親しんで、いくつかの傑作を残した。武蔵の遺著として知られる『五輪書』はかならずしも真正の自著といえないが、二刀の剣理を説いた近世初期の代表的兵法書である。
[渡邉一郎]
日本映画。1961年(昭和36)~1965年作品。内田吐夢(うちだとむ)監督。1950年代になると、GHQ(連合国最高司令部)による統制が解除されて時代劇が急激に復活し、東映が創立されて時代劇のメッカとなった。第二次世界大戦後、東映に入った内田も時代劇をつくるがあまりふるわず、1960年代に入り、時代劇が後退してテレビ番組に移り始めた時期、東映時代劇の全盛時代を担ったスター、中村錦之助(なかむらきんのすけ)(萬屋(よろずや)錦之介、1932―1997)を主役に、長編5部作の『宮本武蔵』で再登場した。この作品で内田は、それまでの剣豪武蔵とはまったく異なった、なんのための剣の道かを自問自答して懊悩(おうのう)する武蔵像を描き出した。画面には殺気と荒涼感が漂い、ディスコミュニケーション(人と人、人と社会との断絶)をにじませた特異な時代劇である。かつて日本映画の最大のジャンルであった時代劇が消滅していく、その最後の局面を開いた作品となり、以降の時代劇の作り方に大きな影響を与えた。
『宮本武蔵』はサイレント時代から何作も製作されており、第二次世界大戦後は1954年~1956年に稲垣浩(いながきひろし)監督、三船敏郎(みふねとしろう)主演で3作品、1973年には加藤泰(かとうたい)監督、高橋英樹(たかはしひでき)(1944― )主演で1作品が映画化されている。
[千葉伸夫]
吉川英治の長編小説。1935年(昭和10)8月~39年7月、東京・大阪『朝日新聞』に連載。36~39年、大日本雄弁会講談社刊。全六巻。美作(みまさか)国(岡山県)吉野郷宮本村の郷士新免無二斎(しんめんむにさい)の子武蔵(たけぞう)は、17歳のとき功名心に燃え、幼友達の本位田又八(ほんいでんまたはち)と関ヶ原の戦いに参加して敗北、人間存在の小ささを覚(さと)り、沢庵和尚(たくあんおしょう)のもとで修行後、剣の求道者を志して旅に出る。お通と朱実(あけみ)、又八と武蔵(むさし)の対比、また吉岡清十郎や佐々木小次郎との対決など興味ある事件をあしらいながら、従来の剣豪としての武蔵像を改め、剣禅一如の境地を求めてやまない青年武蔵の人間形成への精進に光をあて、一種の教養小説として、広く迎えられた。
[尾崎秀樹]
『『宮本武蔵』全六冊(講談社文庫)』
(尾崎秀樹)
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1584~1645.5.19
江戸初期の剣術家。二天一流の祖。生国は美作・播磨国説などある。名字は「新免」も用いた。実像の詳細は不明だが,13~29歳に60度余の他流試合を行い,1度も負けなかったという。佐々木小次郎との巌流(がんりゅう)島の決闘後,剣理の追究に努め,1640年(寛永17)から熊本藩主細川忠利の客分となり,「五輪書」を書きあげた。書・画などにも才能を発揮した。江戸時代から歌舞伎「敵討巌流島」や浄瑠璃などにとりあげられ,吉川英治著「宮本武蔵」は青年剣豪の武蔵像を一般に定着させた。
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…城の南,中堀と外堀の間に侍屋敷が作られ,その南に城下町が建設された。姫路藩本多氏の客臣宮本武蔵玄信の町割図に従って,東は京口門から西は姫路口門までの西国街道沿い9丁19間半の間に,鍛冶屋町,細工町,東西魚町,東西本町,信濃(中)町,明石町,東西樽屋町の10町が造られ,明石湊が掘削された。そのために大蔵谷,中ノ庄,大明石3村の農地630石余がつぶされ,池野村は城地となったために伊川の北に移された。…
…国道373号線が通じる。南東部の宮本は宮本武蔵の生誕地といわれる。【上田 雅子】。…
…江戸初期の兵法書。二天一流の流祖宮本武蔵の著。仏教の〈五大〉,地水火風空にかたどって5巻に分かれ,地の巻は兵法の大意,水の巻は兵法の利,火の巻は合戦の理,風の巻は他流の評論,空の巻は兵法の奥義について述べている。…
…生没年不詳。小説や映画で宮本武蔵と決闘することで有名であるが,実像には不明な点が多い。流名が〈巌流(がんりゆう)〉であるところから,小次郎のことを巌流とも呼ぶ。…
…東京府立一中を卒業後,無声映画時代に映画説明者(いわゆる活弁)となり,気のきいた説明で欧米映画の名説明者として知られていた。トーキー時代になって失業,しかし,漫談や放送(ラジオ)芸能に転向して,吉川英治の《宮本武蔵》の朗読などで,人気を得た。また俳優としても〈笑いの王国〉〈文学座〉などに出演して,卓抜な演技を見せた。…
…都留子の名をもじったトルコの愛称で親しまれ,人気も絶頂に達した37年に,日活に引き抜かれて映画に転向した。 吉川英治原作の《宮本武蔵》の最初の映画化(1937)がデビュー作で,片岡千恵蔵の武蔵を相手にかれんなお通の役を演じ,トルコに代わってお通さんの愛称でたちまち人気スターになった。しがない老サラリーマン(小杉勇)のやさしく明るい娘を演じた《限りなき前進》(1937)から《キャラコさん》(1939),《暢気眼鏡》(1940)などをへて,杉浦幸雄が轟夕起子その人をモデルにして描いたというホームコメディ的な人気連載漫画の映画化《ハナ子さん》(1943,主題歌《お使ひは自転車に乗って》も歌って大ヒットした)に至るまで,〈天性の明るさ〉を持ち味にした明朗ではつらつとした娘役が専門の彼女であったが,のち,40年に結婚(1950年離婚)したマキノ正博監督による,田村泰次郎の〈肉体文学〉の映画化で主題歌《あんな女と誰が言う》も歌って大ヒットした《肉体の門》(1948)の娼婦関東小政や,谷崎潤一郎のベストセラー小説の映画化《細雪》(1950)の次女幸子といった異色のキャラクターを演じた。…
…毎夕新聞社に入り,《親鸞記》ほかを連載したが関東大震災で辞し,講談社系諸雑誌にいくつもの筆名で作品を発表,《キング》の創刊号(1925年1月)から連載した《剣難女難》以後,吉川英治を名乗った。初期の作品は《神変麝香猫》《鳴門秘帖》など伝奇性に富む時代ロマンが多く,大衆文学の草創期を飾ったが,1930年ころから新たな模索に入り,《かんかん虫は唄ふ》《松のや露八》を経て《宮本武蔵》(1936‐39)に到り,国民文学へ向かう可能性を示した。戦中から戦後へかけて《新書太閤記》《三国志》《新・平家物語》《私本太平記》をまとめ広く読まれた。…
※「宮本武蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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