日本においてある種の大衆的な演劇をさしていう言葉。この言葉がジャーナリズムに現れたのは,1931年ごろといわれる。同時に〈大衆演劇〉という言葉も普及しはじめ,その中で意識的に新しい演劇運動をおこそうとした派が〈新喜劇〉または〈軽喜劇〉という言葉を使った。前者は〈旧劇〉である歌舞伎に対する〈新劇〉〈新派〉という言葉と同様の趣旨のもので,後者は,ライト・コメディの訳語といえる。いずれにせよ,このような軽演劇が起こった最も大きな原因は,23年の関東大震災以後の不景気である。生活苦の反動として,とりわけ東京ではエロティシズムとナンセンスの風潮が現れ,それが舞台に反映した。既成演劇の枠を外した芝居やレビューのスタイルをとり入れた構成が好まれて,日本古来の伝統とは無縁なジャンルが隆盛をきわめることになった。大正の半ばから隆盛となった〈浅草オペラ〉が震災によって消えたあとに,やはり庶民の娯楽・芸術として登場したのが軽演劇で,それは日本版ボードビルということもできる。
まず,29年に浅草公園水族館2階の演芸場で,エノケンこと榎本健一を座長とするレビュー式喜劇団〈カジノフォーリー〉が旗揚げした。一座には二村(ふたむら)定一,中村是好(ぜこう)らをはじめ,作者として水守三郎,島村竜三(のち新宿〈ムーラン・ルージュ〉の初期の文芸部長),山田寿夫,仲沢清太郎らがいた。こうした文芸部の顔ぶれには,アナーキストや,新劇(左翼劇)を経てきた人々が多い。そうしたスタッフによって,当時の軽演劇,新喜劇運動が推進されたのである。エノケンは,天性の身軽さを生かしたギャグと,ガラッパチな親しさで,下町のファンに,世相の暗さ,生活の苦しさをひととき忘れさせた。満州事変が起きた1931年の暮,新宿駅裏に〈ムーラン・ルージュ〉が開場した。もと浅草・玉木座の支配人,佐々木千里が主宰し,発足時の座員は中根竜太郎,石田清,藤尾純,有馬是馬,毛利幸尚,三島謙(曾我廼家五郎八),武智豊子(武知杜代子),羽衣歌子といった顔ぶれである。これと前後して,浅草オペラ館に,エノケンの新しい劇団〈ピエル・ブリアント〉が旗揚げし,あくる32年には,浅草最大の劇場である松竹座で常打ちすることになり,やがて看板も〈エノケン一座〉となった。こうして軽演劇は,東京全域に客層を広げ,既成のマジメ演劇のパロディを試み,新宿ではサラリーマン,学生,文士などの客層をつかみ,浅草では労働者層のファンを獲得した。〈ムーラン〉の作家陣は,初期には吉行エイスケ(1906-40),楢崎勤,竜胆寺雄(りゆうたんじゆう)らが参画,のちに伊馬鵜平(のち伊馬春部(いまはるべ)),斎藤豊吉,山田寿夫,穂積純太郎,小崎政房,横倉辰次,阿木翁助(あぎおうすけ)らが加わった。俳優では竹久千恵子,水町庸子,外崎恵美子,沢村い紀雄らが参加,伊馬の《桐の木横町》,阿木の《女中あい史》(《女工哀史》のもじり)など,軽いユーモアと皮肉をまじえたタッチで,劇中に世相を巧みに織りこんだ。その後〈ムーラン〉は,さらに作家として中江良夫,金貝省三,小沢不二夫ら,俳優として左卜全(1894-1971),明日待子,小柳ナナ子,有島一郎,千石規子らの俳優を育てた。かたや〈ピエル・ブリアント〉では,菊谷栄,サトウ・ハチロー(1903-73),和田五雄らが喜劇を書き,俳優陣に柳田貞一,武智豊子(〈ムーラン〉から移籍)らがいた。
一方,31年に日本にも登場した本格的トーキーによって,サイレント映画の弁士が失職。その一党が中心となって33年に浅草常盤座で〈笑いの王国〉が旗揚げした。役者として生駒雷遊(いこまらいゆう)(1895-1964),山野一郎,古川緑波(ロッパ),大辻司郎(1896-1952),渡辺篤(1896-1977),関時男,清川虹子ら,作家陣に菊田一夫,大町竜夫,貴島研二,山下三郎らが加わった。一夜づけの脚本による,いわゆる〈アチャラカ芝居〉なる言葉はここから生まれた。当時のキャッチフレーズは〈アチャラカ・ナンセンス〉で,レマルクのベストセラー小説《西部戦線異状なし》をもじって《東部戦線異状なし》,歌舞伎の《絵本太功記》は《エヘン太閤記》といった風に茶化して上演した(当時の台本に,歌舞伎のパロディが目だつのは,それが人々の一般教養だったからで,だから,戦後には通用しにくくなる)。こうした傾向の背後には,不景気と,軍国主義へなだれこんでゆく時代の流れがあったのだが,ともあれ,こうした中から,多くのボードビリアンが生まれ,喜劇作家が育った。
35年,東宝劇場や有楽座が日比谷に完成すると,東宝は軽演劇の大劇場進出を計画し,浅草から〈笑いの王国〉を脱退した古川ロッパ一党と,エノケン一座を招いて専属契約を結び,有楽座の主要レパートリーに加えた。その結果,アチャラカも大劇場演劇のスタイルをある程度整えねばならなくなった。37年に日中戦争が起きて以来,戦時色は日ごとに強まり,やがて41年には太平洋戦争に突入する。そんな中で,ロッパは,37年に渡辺篤,若手として森繁久弥(1913-2009),山茶花究(さざんかきゆう)を入れ,座付作者の菊田一夫と組んで,《道修町(どしようまち)》《花咲く港》といった〈当時の風潮に従うようにみえて,実は一種の抵抗である芝居をやってのけた〉(小林信彦による)。一方,エノケンは,十八番の《法界坊》《らくだの馬さん》などで人気を博したが,彼の片腕ともいうべき座付作者,菊谷栄の戦死によって,しだいにバイタリティを失っていった。
戦時中,検閲の圧迫を受け続けた軽演劇は,敗戦後も,わずかにエノケン一座,ロッパ一座などが再起したにすぎず,これも戦後のインフレのため,満員でも赤字という状態が続き,やがてこれらの一座は解散となった。そんな中で,ひととき人気を集めたのは,空気座による,田村泰次郎原作・小崎政房脚色の《肉体の門》で,47年に東京だけで4ヵ月続演した。しかし,これとても軽演劇がうけたというよりは,当時のストリップショー全盛時代の世相の反映であった。
本格的な民間放送時代に入った51年から,軽演劇の役者や作家の多くはラジオへ移行し,彼らの芸は家庭向きの〈良識〉的表現にまとめられていった。さらに54年ごろからはテレビジョンが主流となったが,その中から〈テレビ軽演劇〉ともいうべきひとつの流れが生まれた。たとえば《てなもんや三度笠》(香川登志(枝)緒作,沢田隆治演出。朝日放送)は,公開録画による藤田まこと,白木みのるの凸凹コンビの〈道中記〉で,その時どきの人気タレントやコメディアン,売れっ子の歌手をゲスト出演させるというフォーマットは,ブラウン管時代の軽演劇の好例といっていい。一方,劇場では55年に入って,ドイツ文学者でまたコント作家でもあった秦豊吉(1892-1956)が実現した〈帝劇ミュージカルス〉によって,戦前の〈東宝劇団〉〈ロッパ一座〉,戦後の〈ムーラン・ルージュ〉などの長い下積みを経た森繁久弥が脚光を浴びた。56年にはさらに東京宝塚(東宝)劇場が,占領軍の接収解除によって活動を再開,東宝重役となった菊田一夫によって大劇場形式のミュージカルが提唱され,エノケン,ロッパ,トニー谷(1917-87),三木のり平(1923-99),有島一郎,越路吹雪(1924-80),宮城まり子(1929- )ら,戦前派・戦後派のタレントが活躍の場を得た。だが,オールスターキャスト型のこうした舞台は,かつての軽演劇のニュアンスからは,程遠いものとなった。
しかし一方,戦後,軽演劇にとってかわった形で庶民の娯楽として全盛をきわめたストリップショーのコントの中から,あらたな軽演劇の人材が育った。たとえば,一時期の浅草フランス座には,戦前からのベテランの佐山俊二のほか,渥美清(1928-96),関敬六,谷幹一,南利明,八波むと志,作家の井上ひさし(1934-2010)といった,若い才能が集まっていた。また由利徹は〈ムーラン・ルージュ〉解散後は新宿セントラルなどに出演していたし,三波伸介(1930-82),戸塚睦夫は新宿フランス座の出身である。由利・八波・南の〈脱線トリオ〉,三波・戸塚・伊東四朗の〈てんぷくトリオ〉などは〈トリオ漫才〉と呼ばれたが,実態はむしろコントで,幕前で行われる寸劇といったおもむきがあった。こうした人々(〈デン助劇団〉の大宮敏充(1913-76)なども含めて)の多くが,タップを素養として身につけていることにも注目したい。さびれゆく浅草が生んだ最後の軽演劇スターは,フランス座改め東洋劇場から出た〈コント55号〉の萩本欽一(1941- )・坂上二郎ということになろうか。だが,80年代に入って,久々に,という印象で,ヌード劇場(渋谷の道頓堀劇場)から,〈コント・レオナルド〉のレオナルド熊が登場した。毒舌漫才で売った〈ツービート〉のビートたけしも,軽演劇を志向していた。いずれにしても,こうした人たちは,ブラウン管の人気者であり売れ続けねば〈売れ〉ていることにはならない,という宿命を負っている。
近年の成果としては,むしろ〈60年安保〉以後,若者の人気を集めた,いわゆるアングラ劇,小劇場運動の中から,佐藤B作,花王おさむらの〈東京ヴォードヴィルショー〉(1973発足),柄本明,ベンガル,高田純次らの〈東京乾電池〉などの,〈ネオ軽演劇〉ともいうべき一派が育ったことが大きい(ここには奇しくも,戦前の軽演劇誕生の状況に相通ずるものがある)。これらのタレントが巣立った〈自由劇場〉(1966発足。ただし正確には75年再組織のオンシアター自由劇場)の,斎藤憐作《上海バンスキング》(1979初演)は,戦後軽演劇の代表作といってよかろう。
ところで最後に,〈軽演劇〉という言葉だが,それはいまや死語に近い,という説もある。たしかに,〈軽演劇〉というジャンルはもともと特定しがたく,今日多様化の一途をたどる演劇界では,なおさらのことである。しかし,〈軽演劇〉を〈大衆演劇〉の同義語と考えるかどうかについては,意見の分かれるところである。
→大衆演劇
執筆者:森 卓也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大衆演劇の一ジャンル。昭和初期から流行した新しい趣向の喜劇で、1929年(昭和4)東京・浅草に旗揚げされた「カジノ・フオーリー」がその最初である。それまでの日本の喜劇といえば曽我廼家(そがのや)劇に代表される大阪喜劇が主流を占めていたが、これら旧道徳性、因襲性に彩られていたものとはまったく異なり、当時流行のジャズ、レビュー、ボードビル、アメリカ喜劇映画のドタバタギャグなどを取り入れたモダンな喜劇で、当時の都会的風潮を背景として浅草を中心に発展、新しい流れをつくった。「軽演劇」の語は、1932年(昭和7)ごろ、当時盛んに使われた重工業・軽工業ということばに例えてつくられた用語であるが、これは規模の小ささを表すものではなく、その手法、すなわちスラプスティックなギャグを骨子としたナンセンス喜劇をさしたもので、それ以前はレビュー式喜劇とか単にレビューとかいわれていた。
カジノ・フオーリーからは榎本(えのもと)健一(エノケン)がコメディアンとして売り出し、32年に松竹へ引き抜かれて浅草松竹座へ出演、歌舞伎(かぶき)などの名作古典をレビュー化した喜劇を数多く上演して人気を集めた。33年には浅草の常盤(ときわ)座に「笑(わらい)の王国」が旗揚げされ、互いに覇を競い、また新宿には「ムーラン・ルージュ」が31年に誕生し、一つのエポックを築いたほか、各地に多くの同類劇団が生まれた。清水金一(シミキン)、木戸新太郎(キドシン)、森川信などのスターが輩出し、またなかには前衛的な色彩の作品もあった。しかし戦時色が強まるにつれ、この種の喜劇は世相をちゃかしたり、検閲台本にない台詞(せりふ)をアドリブでしゃべったり、とかく不謹慎との理由で弾圧を受け、戦後一時息を吹き返したものの、ストリップショーなどに押されて1950年(昭和25)ごろから急速に衰退し、軽演劇ということばも死語と化した。しかしその手法は現在もテレビや大小劇場に伝承されている。
[向井爽也]
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