出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
エノケンの愛称で親しまれた不世出のコメディアン。天性の身軽さでどたばたを演じ,天才的な音感で難曲を歌いこなした。東京青山に靴屋の息子として生まれる。浅草オペラ全盛の1922年に,17歳で根岸歌劇団のコーラス部員として初舞台を踏み,23年の正月公演《猿蟹合戦》の,その他おおぜいの子猿の1匹の役で,お鉢を抱えて逃げ回ったあげく,舞台の隅でひっくり返し,大立回りをしり目に,こぼれたご飯をたんねんに拾って食べる姿が大受けに受けた。この,ひたすら逃げまどうおかしさとギャグの段取りに,エノケンの資質がよく現れている。同年9月の関東大震災で浅草は壊滅し,オペラのブームも終わる。その間,関西に下ってサイレント映画の端役などを演じていたが,体をこわして帰京。29年,浅草水族館の2階で旗揚げしたカジノフォーリーでの活躍から人気が急上昇した。エノケン自身もいうように〈浅草オペラをベースに,アメリカのマック・セネット喜劇の動きとセンスをとり入れた〉その舞台は,従来の日本の伝統的な人情道徳喜劇に対し,アクロバチックなまでの体技を駆使した〈見る〉笑いに,歌と踊りを盛り込んだレビュー感覚が,当時の人々の志向にマッチした。幾多の曲折を経て,32年11月からエノケン一座となり,34年,PCL(のちに東宝)と映画出演契約を結び,人気は全国的なものとなった。代表作は,山本嘉次郎監督の《エノケンのちゃっきり金太》(1937)と,斎藤寅次郎監督の《エノケンの法界坊》(1938)で,いずれも事あるごとに逃げる小悪党というのがエノケンの役どころである。ただし両作品とも,現存するのは多くのギャグや芸の見せ場をカットされた短縮版で,とりわけ後者の〈釜いりの刑脱出〉のくだりの欠除は惜しい。むしろ,完全に残っている中川信夫監督の《エノケンの頑張り戦術》(1939)の,にせあんまエノケンと客の如月寛多のマッサージからレスリングもどきにエスカレートするどたばたを,長回しで撮ったしつっこいおかしさに舞台の味がうかがわれる。ほかに,長谷川一夫と共演したマキノ正博(雅弘)監督の《待って居た男》(1942)や,敗戦前後に作られた黒沢明監督の《虎の尾を踏む男達》(1952公開)などに,異色の役どころで好演。後者については黒沢が〈顔で笑って目で泣いてくださいと注文したら,まさにぴったりの表情をしてくれた〉と語っている。
戦後は,エノケンが敬愛した山本嘉次郎監督の《新馬鹿時代》(1947)の,古川緑波(ロッパ)の警官に追われる闇屋の役が本領を発揮した最後だろう。特発性脱疽(だつそ)のため53年に右足指切断,さらに62年に大腿部から切断。その間の57年にはひとり息子に先立たれるなどの不運に次々に見舞われた。小柄で顔の造作がすべて大きく,しわの深いエノケンの顔だちは,ときとして悲しげに見え,〈悲劇の喜劇王〉という印象を強めたが,自殺未遂を繰り返しつつも,多くのコメディアンがたどる人情劇志向の道を選ばず,〈舞台で駆けたり,トンボのきれる義足が欲しい〉と,どたばた一筋の自信と執念をもち続けた。体技を失った晩年は,演技の古めかしさが目だったが,テレビのバラエティ番組で,チンパンジーと日本猿を,首の振り方ひとつで演じわけて見せる瞬間に,往年の芸の片鱗を示した。
古くからのファンには,舞台,それも浅草時代が最高であるとして,映画のエノケンを認めない人もある。また,モダンで軽妙なロッパに比べ,泥臭く低俗と見る評価は,人気絶頂期の映画にもついて回った。しかし,舶来のオペレッタのメロディをかたはしから替歌に仕立て,小唄か都々逸のごとく気楽に歌いこなす野太いがらがら声の親近感こそ,大衆のふところに飛び込むエノケンの強みであり,突然駆け出し,突如歌い出す絶妙の呼吸は,残されたフィルムの中に今も生きている。自伝《喜劇こそわが命》(1967)がある。
執筆者:森 卓也
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昭和期の喜劇俳優
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喜劇俳優。愛称エノケン。明治37年10月11日東京・青山に生まれる。尾上(おのえ)松之助にあこがれて映画俳優を志したが果たさず、浅草オペラの柳田貞一門下となり、1922年(大正11)金竜館で初舞台。のち東亜キネマを経て29年(昭和4)浅草で「カジノ・フオーリー」の結成に参加、たちまち頭角を現した。32年松竹の専属となり、浅草松竹座で「エノケン一座」を旗揚げ、38年東宝へ移籍した。映画での初出演はPCLの『青春酔虎伝(すいこでん)』(1934)。第二次世界大戦後はテレビにも出演、55年(昭和30)に喜劇人協会の初代会長に就任したが、私生活では特発性脱疽(だっそ)のため右足切断、ひとり息子の死、離婚、生活苦などの不幸にみまわれ、晩年は恵まれなかった。彼はオペラで修得した洋楽の素養に加えて、独特の体技によるギャグを考案、従来にない新感覚のナンセンス喜劇を開発した。近代の芸能史を通じて彼ほど大衆に親しまれた者はなく、名実ともに日本の喜劇王とよぶにふさわしい人物であった。昭和45年1月7日肝硬変のため死去。死後、勲四等旭日小綬章(きょくじつしょうじゅしょう)を受けた。著書に『喜劇放談』(1956)、『喜劇こそわが命』(1967)などがある。
[向井爽也]
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1904.10.11~70.1.7
昭和期の喜劇俳優。東京都出身。愛称エノケン。1922年(大正11)東京浅草オペラの舞台に立ち,29年(昭和4)喜劇に転じる。軽妙でスピーディな動きと愛嬌ある表情で多数の傑作を残し,演劇・映画で喜劇王といわれた。代表作「エノケンのちゃっきり金太」「エノケンの法界坊」。
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…浅草オペラの時代が去ったあと1929年,東京浅草の水族館余興場で発足した軽演劇団。俳優には榎本健一(エノケン),石田守衛(もりえ),中村是好(ぜこう)に梅園竜子(踊り子)ら,文芸部に島村竜三,山田寿夫らが参加し,歌と踊りにギャグをまじえた時局風刺の寸劇を上演,〈エロ・グロ・ナンセンス時代〉の時好に投じて人気を集めた。翌30年エノケンは脱退して新カジノフォーリーを結成,石田守衛らのカジノフォーリーは33年解散した。…
…この時期,小津安二郎も,軽妙な風俗喜劇を次々に作っていた。当時のコメディアンとしては,チャップリンひげの小倉繁,渡辺篤があげられるが,トーキー時代に入って,いずれも舞台で人気を博したエノケン(榎本健一)とロッパ(古川緑波)が相次いで登場する。エノケンは,スピーディな曲技とがらがら声の歌で,ロッパは〈鈍足のモダンボーイ〉の軽妙な味で,それぞれ人気を博した。…
…大正の半ばから隆盛となった〈浅草オペラ〉が震災によって消えたあとに,やはり庶民の娯楽・芸術として登場したのが軽演劇で,それは日本版ボードビルということもできる。
[エノケンとロッパの時代]
まず,29年に浅草公園水族館2階の演芸場で,エノケンこと榎本健一を座長とするレビュー式喜劇団〈カジノフォーリー〉が旗揚げした。一座には二村(ふたむら)定一,中村是好(ぜこう)らをはじめ,作者として水守三郎,島村竜三(のち新宿〈ムーラン・ルージュ〉の初期の文芸部長),山田寿夫,仲沢清太郎らがいた。…
…松山市に生まれ,苦労して高等小学校を卒業。地方巡業のオペラ団に身を投じ,関東大震災後に上京,浅草オペラのコーラス部員となり,エノケン(榎本健一)と知り合った。1924年(大正13)開場の築地小劇場第1回研究生となり,小山内薫演出《どん底》のルカ役で早くも注目され,スター的存在となった。…
※「榎本健一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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