榎本健一(読み)エノモトケンイチ

デジタル大辞泉 「榎本健一」の意味・読み・例文・類語

えのもと‐けんいち【榎本健一】

[1904~1970]喜劇俳優。東京の生まれ。浅草オペラの出身で、エノケンの愛称で人気を博した。一座を主宰して舞台出演するかたわら、映画でも活躍した。

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精選版 日本国語大辞典 「榎本健一」の意味・読み・例文・類語

えのもと‐けんいち【榎本健一】

  1. 喜劇俳優。大きな目と、独特なしわがれ声を生かして、ナンセンス劇で活躍。エノケンの通称で親しまれた。明治三七~昭和四五年(一九〇四‐七〇

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「榎本健一」の解説

榎本 健一
エノモト ケンイチ


職業
喜劇俳優

肩書
日本喜劇人協会会長

別名
通称=エノケン

生年月日
明治37年 10月11日

出生地
東京市 赤坂区青山南町(東京都 港区)

出身地
東京市 麻布区(東京都 港区)

学歴
麻布尋常高小〔大正8年〕卒

経歴
東京・青山の靴商の子。生後間もなくに実母を亡くし、父は再婚して麻布でせんべい屋をはじめ、商売は繁盛した。幼い頃より“エノケン”と呼ばれた腕白小僧で、背は小さいが動きがすばやく、父や義母を困らせたという。大正8年麻布尋常高等小学校高等科を卒業したが、この間に5回転校。一方、たびたび浅草に行き、オペラや芝居に親しんだ。11年父の死により家業を継ぐが、義母とは反りが合わず、せんべい屋の仕事にもなじめなかったため俳優を目指すようになり、当時人気絶頂であった映画俳優・尾上松之助に弟子入りすべく家を出るが失敗。同年友人の紹介でオペラの根岸歌劇団の柳田貞一に師事し、同歌劇団のコーラス部員としてはじめて舞台を踏んだ。12年の正月公演では「猿蟹合戦」で子分猿の役を与えられ、独自のアドリブを交えた芸で注目される。同年関東大震災で浅草オペラが壊滅状態となり、14年関西へ移り東亜キネマに入って榎本健の芸名で「異国の娘」「謎の指輪」「王政復古」などの映画に端役として出演。昭和3年中根竜太郎喜劇プロダクションに所属するが、間もなく帰京した。4年7月石田守衛を座長格に浅草水族館2階でカジノフォーリーを旗揚げ。当初は不入りであったため2ヶ月で解散したが、10月今度は自らが中心となり中村是好、間野玉三郎らとともに第二次カジノフォーリーを結成。常連客であった川端康成が小説「浅草紅団」で紹介したのがきっかけで注目されるようになり、浅草オペラをベースとしながら米国のスラップスティックに影響を受けたスピーディな動きと愛敬ある表情、従来の喜劇とは一線を画したナンセンスなアドリブのギャグでたちまち人気者となった。5年カジノフォーリーの幹部の裏切りに遭い、新カジノフォーリーを作って浅草観音劇場に出るが長続きせず、同年浅草・玉木座で公演していた清水金太郎らのプペ・ダンサントに合流したのを経て、浅草・オペラ座の開場と同時に二村定一らとピエル・ブリアントを結成。7年松竹と契約して浅草でもっとも大きな劇場である松竹座を拠点にエノケン劇団を旗上げし、欧米の音楽喜劇映画をヒントにした「最後の伝令」「ジキルハイド」「エノケンの闘牛士」「ウイウイ巴里」や歌舞伎・時代劇をレビュー化した「助六」「一心太助」「弥次喜多」などを上演。連日劇場を満員にし、古川緑波・徳川夢声・生駒雷遊らの笑いの王国と人気を二分した。一方でジャズの曲にそれとはまったく関係ない日本語の歌詞をつけて歌った「洒落男」「私の青空」「ダイナ」などのレコードもヒットした。9年山本嘉次郎監督の「エノケンの青春酔虎伝」(P.C.L.)で映画初主演。13年一座で東宝の専属となり、日劇に出演。映画でも「エノケンのチャッキリ金太」「エノケンの法界坊」「孫悟空」などに主演してバイタリティあふれる笑いを創造する一方、黒沢明監督「虎の尾を踏む男達」などにも出演した。戦時中は舞台・映画で活躍する一方、軍隊慰問のため各地を巡業。戦後は笠置シヅ子とのコンビで大当たりをとり、22年には映画「新馬鹿時代」で浅草時代からの宿敵・緑波と共演して話題となる。27年かつて舞台「孫悟空」で右足に天井から落ちてきた如意坊が当たったのが原因で脱疽にかかり、右足指を切断。29年緑波、柳家金語楼らと日本喜劇人協会を設立し、会長に就任(43年退任)。35年喜劇人として初の紫綬褒章を受章した。しかし、32年一人息子を失い、37年には脱疸で右足大腿部を切断するなど不幸が続き、一時は自殺を考えたほどであったが、38年右足に義足を付けて復活を果たした。著書に「エノケンの泣き笑い人生」「喜劇放談」「喜劇こそわが命」がある。

受賞
紫綬褒章〔昭和35年〕,勲四等旭日小綬章(没後) テアトロン賞(昭34年度)「浅草の灯」,NHK放送文化賞〔昭和35年〕

没年月日
昭和45年 1月7日 (1970年)

家族
養女=榎本 ちえ子(女優)

伝記
なつかしい芸人たち最期の台詞―演劇人に学ぶ死の作法笑わせる側の人生エノケンと“東京喜劇”の黄金時代ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々決定版 私説コメディアン史エノケンと呼ばれた男大衆文化の原像笑いに生きた達人たちシネマ博物誌―エノケンからキートンまでビジュアル版・人間昭和史〈7〉 大衆のアイドル 色川 武大 著北川 登園 著矢野 誠一 著東京喜劇研究会 編西条 昇 著沢田 隆治 著井崎 博之 著佐藤 忠男 著森 卓也 著(発行元 新潮社STUDIO CELLO青蛙房論創社白泉社筑摩書房講談社岩波書店日本テレビ放送網平凡社講談社 ’08’07’05’03’03’03’93’93’92’87’86発行)

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改訂新版 世界大百科事典 「榎本健一」の意味・わかりやすい解説

榎本健一 (えのもとけんいち)
生没年:1904-70(明治37-昭和45)

エノケンの愛称で親しまれた不世出のコメディアン。天性の身軽さでどたばたを演じ,天才的な音感で難曲を歌いこなした。東京青山に靴屋の息子として生まれる。浅草オペラ全盛の1922年に,17歳で根岸歌劇団のコーラス部員として初舞台を踏み,23年の正月公演《猿蟹合戦》の,その他おおぜいの子猿の1匹の役で,お鉢を抱えて逃げ回ったあげく,舞台の隅でひっくり返し,大立回りをしり目に,こぼれたご飯をたんねんに拾って食べる姿が大受けに受けた。この,ひたすら逃げまどうおかしさとギャグの段取りに,エノケンの資質がよく現れている。同年9月の関東大震災で浅草は壊滅し,オペラのブームも終わる。その間,関西に下ってサイレント映画の端役などを演じていたが,体をこわして帰京。29年,浅草水族館の2階で旗揚げしたカジノフォーリーでの活躍から人気が急上昇した。エノケン自身もいうように〈浅草オペラをベースに,アメリカのマックセネット喜劇の動きとセンスをとり入れた〉その舞台は,従来の日本の伝統的な人情道徳喜劇に対し,アクロバチックなまでの体技を駆使した〈見る〉笑いに,歌と踊りを盛り込んだレビュー感覚が,当時の人々の志向にマッチした。幾多の曲折を経て,32年11月からエノケン一座となり,34年,PCL(のちに東宝)と映画出演契約を結び,人気は全国的なものとなった。代表作は,山本嘉次郎監督の《エノケンのちゃっきり金太》(1937)と,斎藤寅次郎監督の《エノケンの法界坊》(1938)で,いずれも事あるごとに逃げる小悪党というのがエノケンの役どころである。ただし両作品とも,現存するのは多くのギャグや芸の見せ場をカットされた短縮版で,とりわけ後者の〈釜いりの刑脱出〉のくだりの欠除は惜しい。むしろ,完全に残っている中川信夫監督の《エノケンの頑張り戦術》(1939)の,にせあんまエノケンと客の如月寛多のマッサージからレスリングもどきにエスカレートするどたばたを,長回しで撮ったしつっこいおかしさに舞台の味がうかがわれる。ほかに,長谷川一夫と共演したマキノ正博(雅弘)監督の《待って居た男》(1942)や,敗戦前後に作られた黒沢明監督の《虎の尾を踏む男達》(1952公開)などに,異色の役どころで好演。後者については黒沢が〈顔で笑って目で泣いてくださいと注文したら,まさにぴったりの表情をしてくれた〉と語っている。

 戦後は,エノケンが敬愛した山本嘉次郎監督の《新馬鹿時代》(1947)の,古川緑波(ロッパ)の警官に追われる闇屋の役が本領を発揮した最後だろう。特発性脱疽(だつそ)のため53年に右足指切断,さらに62年に大腿部から切断。その間の57年にはひとり息子に先立たれるなどの不運に次々に見舞われた。小柄で顔の造作がすべて大きく,しわの深いエノケンの顔だちは,ときとして悲しげに見え,〈悲劇の喜劇王〉という印象を強めたが,自殺未遂を繰り返しつつも,多くのコメディアンがたどる人情劇志向の道を選ばず,〈舞台で駆けたり,トンボのきれる義足が欲しい〉と,どたばた一筋の自信と執念をもち続けた。体技を失った晩年は,演技の古めかしさが目だったが,テレビのバラエティ番組で,チンパンジーと日本猿を,首の振り方ひとつで演じわけて見せる瞬間に,往年の芸の片鱗を示した。

 古くからのファンには,舞台,それも浅草時代が最高であるとして,映画のエノケンを認めない人もある。また,モダンで軽妙なロッパに比べ,泥臭く低俗と見る評価は,人気絶頂期の映画にもついて回った。しかし,舶来のオペレッタのメロディをかたはしから替歌に仕立て,小唄か都々逸のごとく気楽に歌いこなす野太いがらがら声の親近感こそ,大衆のふところに飛び込むエノケンの強みであり,突然駆け出し,突如歌い出す絶妙の呼吸は,残されたフィルムの中に今も生きている。自伝《喜劇こそわが命》(1967)がある。
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「榎本健一」の解説

榎本 健一
エノモト ケンイチ

昭和期の喜劇俳優



生年
明治37(1904)年10月11日

没年
昭和45(1970)年1月7日

出生地
東京市赤坂区青山南町(現・東京都港区)

出身地
東京市麻布区

別名
通称=エノケン(エノケン)

学歴〔年〕
麻布尋常高小〔大正8年〕卒

主な受賞名〔年〕
テアトロン賞(昭34年度)「浅草の灯」,NHK放送文化賞〔昭和35年〕,紫綬褒章〔昭和35年〕,勲四等旭日小綬章(没後)

経歴
幼い頃より“エノケン”と呼ばれ、浅草オペラの魅力にとりつかれる。根岸歌劇団などを経て、昭和4年浅草のカジノフォーリーに参加、スピーディな動きとアドリブのギャグ、愛敬ある表情でたちまち一座の人気者に。7年エノケン劇団を旗上げ。9年「エノケンの青春酔虎伝」(PCL)で映画初出演、13年東宝の専属となり、「エノケンのチャッキリ金太」「エノケンの法界坊」「孫悟空」などに主演、バイタリティあふれる笑いを創造し一世を風靡した。戦後は黒沢明監督の「虎の尾を踏む男達」で注目を浴び、舞台では「雲の上団五郎一座」などで活動をつづけた。しかし、32年に一人息子を失い、37年には脱疸のため右足切断という不幸がつづいた。35年喜劇人として初の紫綬褒章を受章、43年まで日本喜劇人協会会長もつとめた。著書に「エノケンの泣き笑い人生」「喜劇放談」「喜劇こそわが命」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「榎本健一」の意味・わかりやすい解説

榎本健一
えのもとけんいち
(1904―1970)

喜劇俳優。愛称エノケン。明治37年10月11日東京・青山に生まれる。尾上(おのえ)松之助にあこがれて映画俳優を志したが果たさず、浅草オペラの柳田貞一門下となり、1922年(大正11)金竜館で初舞台。のち東亜キネマを経て29年(昭和4)浅草で「カジノ・フオーリー」の結成に参加、たちまち頭角を現した。32年松竹の専属となり、浅草松竹座で「エノケン一座」を旗揚げ、38年東宝へ移籍した。映画での初出演はPCLの『青春酔虎伝(すいこでん)』(1934)。第二次世界大戦後はテレビにも出演、55年(昭和30)に喜劇人協会の初代会長に就任したが、私生活では特発性脱疽(だっそ)のため右足切断、ひとり息子の死、離婚、生活苦などの不幸にみまわれ、晩年は恵まれなかった。彼はオペラで修得した洋楽の素養に加えて、独特の体技によるギャグを考案、従来にない新感覚のナンセンス喜劇を開発した。近代の芸能史を通じて彼ほど大衆に親しまれた者はなく、名実ともに日本の喜劇王とよぶにふさわしい人物であった。昭和45年1月7日肝硬変のため死去。死後、勲四等旭日小綬章(きょくじつしょうじゅしょう)を受けた。著書に『喜劇放談』(1956)、『喜劇こそわが命』(1967)などがある。

[向井爽也]

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百科事典マイペディア 「榎本健一」の意味・わかりやすい解説

榎本健一【えのもとけんいち】

喜劇俳優。東京生れ。浅草オペラ全盛の1922年,根岸歌劇団のコーラス部員として初舞台を踏んで以来,カジノ・フォーリー,プペ・ダンサントなどのレビュー団を経て,1932年エノケン一座を組織。さらに映画,ミュージカルに出演,アクロバティックで軽妙な歌と踊りで人気を得た。〈エノケン〉の愛称で庶民に親しまれた。自伝に《喜劇こそわが命》。
→関連項目軽演劇斎藤寅次郎中川信夫古川緑波丸山定夫

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「榎本健一」の解説

榎本健一 えのもと-けんいち

1904-1970 昭和時代の喜劇俳優。
明治37年10月11日生まれ。大正末期から浅草オペラ金竜館の舞台にたつ。昭和4年カジノフォーリーに出演,7年松竹座でエノケン一座を旗揚げ。映画「エノケンのちゃっきり金太」「エノケンの法界坊」などが大ヒット,エノケンの愛称でしたしまれ,喜劇王とよばれた。37年脱疽(だっそ)で右足切断後も義足で舞台にたった。昭和45年1月7日死去。65歳。東京出身。
【格言など】自分自身を幸福と思え

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「榎本健一」の意味・わかりやすい解説

榎本健一
えのもとけんいち

[生]1904.10.11. 東京
[没]1970.1.7. 東京
喜劇俳優。通称エノケン。柳田貞一の門下で,1919年東京浅草金竜館で初舞台。カジノ・フォーリー,新カジノ・フォーリー,プペ・ダンサント,ピエル・ブリアントを結成し,浅草でボードビリアンとして人気を得,32年松竹座でエノケン一座を組織した。のち東宝に転籍,舞台,映画に出演,笑いのなかに哀愁性をもった芸風で一般庶民に親しまれた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「榎本健一」の解説

榎本健一
えのもとけんいち

1904.10.11~70.1.7

昭和期の喜劇俳優。東京都出身。愛称エノケン。1922年(大正11)東京浅草オペラの舞台に立ち,29年(昭和4)喜劇に転じる。軽妙でスピーディな動きと愛嬌ある表情で多数の傑作を残し,演劇・映画で喜劇王といわれた。代表作「エノケンのちゃっきり金太」「エノケンの法界坊」。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

367日誕生日大事典 「榎本健一」の解説

榎本 健一 (えのもと けんいち)

生年月日:1904年10月11日
昭和時代の喜劇俳優。日本喜劇人協会会長
1970年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の榎本健一の言及

【カジノフォーリー】より

…浅草オペラの時代が去ったあと1929年,東京浅草の水族館余興場で発足した軽演劇団。俳優には榎本健一(エノケン),石田守衛(もりえ),中村是好(ぜこう)に梅園竜子(踊り子)ら,文芸部に島村竜三,山田寿夫らが参加し,歌と踊りにギャグをまじえた時局風刺の寸劇を上演,〈エロ・グロ・ナンセンス時代〉の時好に投じて人気を集めた。翌30年エノケンは脱退して新カジノフォーリーを結成,石田守衛らのカジノフォーリーは33年解散した。…

【喜劇映画】より

…この時期,小津安二郎も,軽妙な風俗喜劇を次々に作っていた。当時のコメディアンとしては,チャップリンひげの小倉繁,渡辺篤があげられるが,トーキー時代に入って,いずれも舞台で人気を博したエノケン(榎本健一)とロッパ(古川緑波)が相次いで登場する。エノケンは,スピーディな曲技とがらがら声の歌で,ロッパは〈鈍足のモダンボーイ〉の軽妙な味で,それぞれ人気を博した。…

【軽演劇】より

…大正の半ばから隆盛となった〈浅草オペラ〉が震災によって消えたあとに,やはり庶民の娯楽・芸術として登場したのが軽演劇で,それは日本版ボードビルということもできる。
[エノケンとロッパの時代]
 まず,29年に浅草公園水族館2階の演芸場で,エノケンこと榎本健一を座長とするレビュー式喜劇団〈カジノフォーリー〉が旗揚げした。一座には二村(ふたむら)定一,中村是好(ぜこう)らをはじめ,作者として水守三郎,島村竜三(のち新宿〈ムーラン・ルージュ〉の初期の文芸部長),山田寿夫,仲沢清太郎らがいた。…

【丸山定夫】より

…松山市に生まれ,苦労して高等小学校を卒業。地方巡業のオペラ団に身を投じ,関東大震災後に上京,浅草オペラのコーラス部員となり,エノケン(榎本健一)と知り合った。1924年(大正13)開場の築地小劇場第1回研究生となり,小山内薫演出《どん底》のルカ役で早くも注目され,スター的存在となった。…

※「榎本健一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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