カジノフォーリー

精選版 日本国語大辞典 「カジノフォーリー」の意味・読み・例文・類語

カジノ‐フォーリー

  1. ( フランスカジノ‐ド‐パリとフォーリー‐ベルジェールをもじったもの )[ 異表記 ] カジノフォリー 劇団名。昭和四年(一九二九)東京浅草水族館の余興場で、石田守衛(もりえ)を中心に榎本健一、中村是好らが結成レビューなどのウイットに富む大衆演劇を目ざしたが、二か月で解散、間もなく榎本健一を中心に第二次カジノが結成され、エログロナンセンス喜劇などを上演して有名になった。カジノ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「カジノフォーリー」の意味・わかりやすい解説

カジノフォーリー

浅草オペラの時代が去ったあと1929年,東京浅草の水族館余興場で発足した軽演劇団。俳優には榎本健一エノケン),石田守衛(もりえ),中村是好(ぜこう)に梅園竜子(踊り子)ら,文芸部に島村竜三,山田寿夫らが参加し,歌と踊りギャグをまじえた時局風刺の寸劇を上演するなど,〈エロ・グロ・ナンセンス時代〉の時好に投じて人気を集めた。翌30年エノケンは脱退して新カジノフォーリーを結成,石田守衛らのカジノフォーリーは33年解散した。
軽演劇
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カジノフォーリー」の意味・わかりやすい解説

カジノ・フオーリー
かじのふおーりー

劇団名。1929年(昭和4)7月10日東京・浅草の水族館2階の演芸場に旗揚げされた。フランスのカジノ・ド・パリとフォリー・ベルジェールを組み合わせた名前で、「フォリー」を日本人に受け易いように「フオーリー」とした。石田守衛(もりえ)を中心に榎本(えのもと)健一(エノケン)、中村是好(ぜこう)など浅草オペラの残党が参加、当時流行のジャズ、レビュー、アメリカ喜劇映画のスラプスティック・ギャグを取り入れた新趣向の喜劇を上演して軽演劇の先駆となった。しかし不入りのため2か月で解散、同年10月、石田にかわって榎本が座長格になり再スタートした。たまたま連載中の新聞小説『浅草紅団(くれないだん)』(川端康成作)に取り上げられたことなどから一躍有名になり、エロ・グロ・ナンセンスの風潮にのって一時期を画したが、翌年6月に榎本が脱退して観音劇場に新カジノ・フオーリーを結成した。カジノのほうはその後石田が復帰、文芸的作品も上演したが、かえって客を逃がし、33年(昭和8)3月に解散した。

[向井爽也]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「カジノフォーリー」の意味・わかりやすい解説

カジノ・フォーリー

軽演劇の劇団。浅草オペラの時代のあと,1929年東京浅草水族館2階の余興場を本拠に石田守衛,榎本健一らによって創立。カジノ・ド・パリとフォリー・ベルジェールをもじって命名。歌と踊りに時局風刺のギャグをまじえた喜劇が〈エロ・グロ・ナンセンス〉の時代に人気を博したが1933年解散。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のカジノフォーリーの言及

【榎本健一】より

…その間,関西に下ってサイレント映画の端役などを演じていたが,体をこわして帰京。29年,浅草水族館の2階で旗揚げしたカジノフォーリーでの活躍から人気が急上昇した。エノケン自身もいうように〈浅草オペラをベースに,アメリカのマック・セネット喜劇の動きとセンスをとり入れた〉その舞台は,従来の日本の伝統的な人情道徳喜劇に対し,アクロバチックなまでの体技を駆使した〈見る〉笑いに,歌と踊りを盛り込んだレビュー感覚が,当時の人々の志向にマッチした。…

※「カジノフォーリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android