九戸城(読み)くのへじょう

日本の城がわかる事典 「九戸城」の解説

くのへじょう【九戸城】

岩手県二戸市にあった戦国時代の広大な平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。南部氏の一族である九戸氏が居城としていた城で、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の最後の戦いの舞台となった城。その敷地面積は、東京ドームの10倍にあたる約34万m2三方を川に囲まれた東北地方有数の規模を誇る城郭で、本丸の一部には石垣もあった。九戸光正が明応年間(1492~1501年)に築城し、九戸氏は以降、この城を拠点に勢力を伸ばした。天正年間(1573~1591年)、九戸政実(まさざね)の代に九戸氏は絶頂期を迎えるが、宗家南部氏の後継者問題で当主南部信直と対立し、抗争を繰り返すことになった。その後、奥州仕置を開始した秀吉は、これを政実の反乱とみなし、徳川家康豊臣秀次ら6万余騎の軍勢を九戸氏討伐に差し向けた。政実らは5000人が籠城して防戦し、大軍の攻撃にもついに九戸城は陥落しなかった。結局、和議を受け入れた政実により開城され戦いは終息したが、のちに政実は宮城県三迫で処刑され、反乱に加わった人々もことごとく処刑されたといわれる。この乱ののち、九戸城は蒲生氏郷(がもううじさと)により改修されて南部信直に引き渡され、三戸城を居城としていた信直は名前を福岡城と改めてここに移った。1597年(慶長2)、盛岡城(不来方城)が完成して南部氏の本城となり、福岡城は1636年(寛永13)に廃城、破却されている。現在、若狭舘・戸舘など九戸城旧来の姿をとどめる遺構も残っている。JR東北新幹線・IGRいわて銀河鉄道二戸駅からバス約5分で呑香稲荷神社前下車、徒歩約10分。◇福岡城、宮野城とも呼ばれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「九戸城」の意味・わかりやすい解説

九戸城
くのへじょう

戦国期~江戸初期の城。岩手県二戸(にのへ)市福岡城ノ内(じょうのうち)にある。馬淵(まべち)川、白鳥川、猫淵川に囲まれた台地上に築かれていた。1569年(永禄12)南部(なんぶ)氏の一族九戸政実(まさざね)が居城とし、1591年(天正19)の九戸政実の乱のときに本拠とした城である。豊臣(とよとみ)秀吉の全国統一最後の戦いが行われた所として有名。乱鎮圧後、南部信直(のぶなお)が福岡城と名を改め、1599年(慶長4)に盛岡に城を移すまで本拠とした。

[小和田哲男]


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世界大百科事典(旧版)内の九戸城の言及

【二戸[市]】より

…人口2万8018(1995)。1591年(天正19)九戸政実が九戸城に拠って南部信直,豊臣秀次らの大軍と戦ったが滅亡し(九戸政実の乱),のち一時南部氏が居城した。九戸城は別名を白鳥城といい,山城から平城に移る過渡期の城として規模の大きいことで知られ,城跡は国指定史跡。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」