朝日日本歴史人物事典 「八代六郎」の解説
八代六郎
生年:万延1.1.3(1860.1.25)
明治大正期の海軍軍人。父松山庄七は尾張国丹羽郡楽田村(犬山市)の大庄屋。明治1(1868)年水戸浪士八代逸平の養子となった。6年愛知英語学校に入学(同窓に坪内逍遥,三宅雪嶺など)。9年県の選抜生となり上京,落第すれば侠客になる覚悟で海軍兵学校を受験,合格(8期)。日露戦争(1904~05)には「浅間」艦長として出征。仁川沖海戦の前夜,海上にて尺八を奏した。また勲功による下賜金を戦死した部下の遺族に与えたりするなど,部下思いとして知られる。大正3(1914)年4月,軍政の経験がなかったが同郷の加藤高明の懇請もあって第2次大隈重信内閣の海軍大臣となり,5月にシーメンス事件により辞職した首相山本権兵衛,海軍大臣斎藤実の予備役編入を断行して海軍の信頼回復に努め,一方で懸案の海軍費の拡張を議会に認めさせた。5年男爵,7年大将に進み軍事参議官となる。<参考文献>小笠原長生『侠将八代六郎』,鵜崎鷺城ほか「岡陸相と八代海相」(『中央公論』304号)
(岸本昌也)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報