千熊長彦(読み)ちくまながひこ

改訂新版 世界大百科事典 「千熊長彦」の意味・わかりやすい解説

千熊長彦 (ちくまながひこ)

日本書紀神功皇后紀にみえる人物。同紀47年4月条に新羅への使者に選ばれたことがみえる。同条の分注に〈分明に其の姓を知らざる人なり〉とあるが,一説武蔵の国の人で,額田部槻本首(ぬかたべのつきもとのおびと)らの始祖とし,《百済記》にいう職麻那那加比跪(ちくまなながひこ)にあてている。同49年3月に荒田別鹿我別らを将軍とし,新羅を討った際に,百済王は千熊長彦と辟支山(へきのむれ),古沙山(こさのむれ)に登って盟をなしたという。都で厚遇され,百済の久氐(くてい)らにつきそわれ翌年帰国。同51年にも久氐らにそえて百済に派遣され,翌年久氐らの来朝に際して帰国したことがみえている。
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朝日日本歴史人物事典 「千熊長彦」の解説

千熊長彦

生年生没年不詳
4,5世紀ごろ,朝鮮外交に従事したとされる人物。一説に武蔵国の人という。神功皇后摂政47年新羅が百済の貢物を奪って朝貢したことが発覚した際,新羅に問罪使として遣わされ,同49年荒田別,鹿我別を将軍として新羅を攻めたとき,百済王と辟支山(全羅北道金堤),古沙山(全羅北道古阜)に登って盟約を交わしたとされる。『日本書紀』に引用される『百済記』に職麻那那加比跪とあるのがこれに相当するという。両者の関係については,倭と百済に同様の資料が存在したとする説と,『百済記』の記載を知った書紀編者が日本流の文字を当てたとする説があるが,後者の説が妥当であろう。<参考文献>山尾幸久『古代日朝関係

(佐藤長門)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「千熊長彦」の解説

千熊長彦 ちくま-ながひこ

「日本書紀」にみえる新羅(しらぎ)(朝鮮)への使者。
武蔵(むさし)の人という。神功(じんぐう)皇后摂政47年新羅に貢物をうばわれたという百済(くだら)(朝鮮)使の言い分をたしかめるためつかわされる。49年新羅を討ち,百済王に今後の朝貢をちかわせた。51年にも百済に派遣され,翌年帰国した。

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