日朝関係(読み)にっちょうかんけい

共同通信ニュース用語解説 「日朝関係」の解説

日朝関係

日本と北朝鮮には国交がない。2002年9月、小泉純一郎首相が訪朝、金正日キム・ジョンイル総書記と初の日朝首脳会談を行った。金正日氏は日本人拉致を認めて謝罪し、国交正常化交渉の再開や国交正常化後の経済協力を明記した日朝平壌ピョンヤン宣言に署名、拉致被害者5人が帰国した。しかし、拉致問題を巡り日朝関係は逆に悪化。安倍晋三首相は今年5月、膠着こうちゃく打開に向けて前提条件を付けずに金正恩キム・ジョンウン朝鮮労働党委員長との会談実現を目指す方針に転じた。平壌宣言に基づき、拉致、核、ミサイル問題の包括的解決を目指すとの立場は維持している。(北京共同)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日朝関係」の意味・わかりやすい解説

日朝関係
にっちょうかんけい

日本と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との関係、広義では日本と朝鮮半島との関係。本項では前者を扱う。

関係改善が模索された時期

日朝間が国交をもったことはないが、関係改善が模索された時期がある。

 日朝が接近を図った第一の時期は冷戦下の1950年代なかばである。1953年3月にソ連(当時)の最高指導者スターリンが死去した後、米ソ間に緊張緩和と平和共存の機運が生じたことを受け、日ソ間、さらには日朝間も距離を縮める雰囲気が高まった。日本では北朝鮮を「北鮮」とよぶのが一般的な時期であった。

 1955年2月、北朝鮮外相の南日(ナムイル)が日本に対して「貿易、文化およびその他の朝日関係の樹立、発展に関する諸問題を具体的に討議する用意がある」と呼びかけ、鳩山一郎(はとやまいちろう)政権下で日朝貿易が拡大し、両国を結ぶ直航船も就航した。1959年(昭和34)12月に在日朝鮮人の帰国事業が開始され、9万人以上もの在日朝鮮人と日本人配偶者が北朝鮮に渡った。

 しかし、1961年5月に韓国で朴正煕(ぼくせいき)が政権を掌握してから日韓関係が進展し、1965年6月の日韓基本条約で韓国が「唯一の合法的な政府」だと確認されたことを受け、日朝関係は急速に冷却化した。冷戦期において日本が南北双方と良好な関係を構築するのはむずかしく、日米は韓国とだけ、中ソは北朝鮮とだけ国交を結んだ。

 2回目の日朝接近は、1960年代末からの米ソデタント(緊張緩和)と米中接近の時期にみられた。中ソ対立が顕在化したこのころ、中ソはそれぞれアメリカとの緊張緩和に乗り出した。アメリカ大統領リチャード・ニクソンは1972年2月に中国、5月にソ連を訪問したが、米中の動きにあわせて日中両国も急接近し、1972年9月に日中国交正常化が実現した。日本では、日中に続いて日朝関係も重視する雰囲気が生じ、ジャーナリストや政治家が相次いで訪朝し、234人の超党派国会議員によって日朝友好促進議員連盟が結成された。

 しかし、日朝の急接近は、日本と国交正常化したばかりの韓国にとって受け入れがたいことであった。北朝鮮は日本に対して南北との等距離外交を要求したが、日本側は北朝鮮との政府間接触に応じず、経済、文化、人道、スポーツ分野から交流を積み上げていくよう主張した。その後、日朝貿易はピークを迎えた。

 1970年代ころまで、日本における北朝鮮のイメージは良好であった。1971年10月には東京都知事の美濃部亮吉(みのべりょうきち)が訪朝して首相の金日成(キムイルソン)と会見し、「資本主義と社会主義の競争では、平壌(ピョンヤン)の現状をみるだけで、その結論は明らかです。われわれは、資本主義の負けが明らかであると話し合いました」などと述べている。

 第三の時期は、冷戦終結前後の時期である。1988年7月7日、韓国大統領の盧泰愚(ノテウ)は「北朝鮮と韓国の友邦との関係改善および社会主義国家と韓国との関係改善のため、相互に協調する意思がある」と表明した。「7・7宣言」(「民族自尊と統一繁栄のための大統領特別宣言」)である。日本にとっては、北朝鮮との国交正常化に韓国が反対しないという意味であった。1989年2月にはハンガリーが韓国との国交正常化に踏み切り、他の東欧諸国もそれに続き、1990年9月にはソ韓も国交を樹立した。

 北朝鮮は東欧やモンゴルなどにおける社会主義体制の相次ぐ崩壊という危機的状況の突破口として日本との関係改善を模索した。日本側にも、最後に残った戦後処理として北朝鮮との国交正常化を進めたいとの考えがあった。1990年(平成2)9月、与党・自由民主党と野党第一党の日本社会党を代表して副首相金丸信(かねまるしん)(1914―1996)と社会党副委員長田辺誠(1922―2015)が訪朝し、朝鮮労働党との間で「三党共同宣言」(「日朝関係に関する日本の自由民主党、日本社会党、朝鮮労働党の共同宣言」)に署名した。「できるだけ早い時期に国交関係を樹立すべき」との合意を受けて、1991年1月に日朝両政府による国交正常化交渉が開始された。

 しかし、1987年11月に発生した大韓航空機爆破事件の実行犯である北朝鮮の工作員、金賢姫(キムヒョンヒ)(1962― )に日本語を教えた李恩恵(リウネ)と名のる女性が日本人拉致(らち)被害者ではないかという疑惑が浮上し、国交正常化交渉は1992年11月の第8回会談で決裂した。北朝鮮側は、事件への関与や金賢姫および李恩恵の存在を一切否定している。北朝鮮による核開発疑惑も浮上し、日本側が核問題を含めた一括解決を主張したのに対し、北朝鮮側がまったく応じなかったことも交渉決裂の要因となった。

 一方、民間交流は活発化した。JTB(日本交通公社)や近畿日本ツーリストなど日本の大手旅行代理店が北朝鮮ツアーを企画し、名古屋や新潟から平壌に空路で向かう直行チャーター便も運航された。1991年9月には北朝鮮を代表する音楽グループ、普天堡(ポチョンボ)電子楽団が日本で公演した。

 第四の転機は、2002年(平成14)9月17日の首相小泉純一郎の訪朝である。それまでにみられた日朝間の接近は大国や国際政治の動きと連動したものだったが、2002年は日朝相互が自ら接近しようとしたばかりか、それまでの政党間外交ではなく、政府が中心となって交渉を進める転換点ともなった。

[礒﨑敦仁 2021年6月21日]

日朝首脳会談の開催

小泉首相が史上初の日朝首脳会談を実現させた背景には、北朝鮮による日本人拉致(らち)問題が国民的課題となっていた事実があった。会談直前の事務折衝で、北朝鮮側は拉致事件被害者について「8人が死亡、5人が生存、1人は入国の事実なし」と伝えた。国防委員長金正日(キムジョンイル)は首脳会談で小泉に謝罪し、「1970年代、1980年代初めまで特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走った」と説明した。

 両首脳が署名した「日朝平壌(ピョンヤン)宣言」は、国交正常化交渉を再開する、日本が植民地支配に対する「痛切な反省と心からのお詫(わ)び」を表明する、日本は国交正常化後に無償や低利での経済協力を実施する、第二次世界大戦終結までに生じた財産および請求権を双方が放棄する、日本国民の生命と安全にかかわる懸案について、北朝鮮は再発防止措置をとる、核問題に関するすべての国際的合意を遵守する、ミサイル発射のモラトリアムを2003年以降も延長する、というものであった。

 金正日は、日本人拉致問題に対して謝罪に踏み切ったが、文書に「拉致」ということばを残すことには応じなかった。

 戦前に朝鮮半島を日本が植民地支配した過去にかんがみて、1965年(昭和40)の日韓国交正常化の際には計5億ドルの経済協力が韓国に対して行われた。北朝鮮に対しても、国交が正常化されれば同様の資金供与が行われることは日朝両国の共通認識であるが、北朝鮮はそれまで資金の名称を「賠償」や「補償」にするよう求めていたが、宣言では日本側の主張に歩み寄った。

 北朝鮮はそれまで「捏造(ねつぞう)だ」としてきた拉致事件に対する態度を一変させ、金正日が首脳会談で「百年の宿敵」である日本に謝罪した背景としては、日本からの経済協力を経済発展の起爆剤にしたいとの思惑や、日本を通じてアメリカとの交渉に臨む思惑があったと考えられている。

[礒﨑敦仁 2021年6月21日]

拉致問題と関係の膠着化

北朝鮮側が提示した拉致(らち)被害者の安否報告を精査するため、2002年(平成14)9月末に日本政府調査団が訪朝した。北朝鮮は8人の死因についてガス中毒や交通事故、溺死(できし)、自殺と説明し、さらに「8人のうち7人の遺骨は水害で流された」と主張した。日本では「不自然な点が多すぎる」という反発が強まった。

 生存しているとされた5人は10月15日に帰国した。10月末にはクアラルンプールで第12回日朝国交正常化交渉が行われたが、すでに帰国を果たした拉致被害者の家族を日本に帰国させる問題で対立し、また中断された。拉致問題に対する世論の関心がきわめて高いなか、日本政府には拉致問題で弱腰姿勢をとる余地はなかった。

 北朝鮮側は「拉致問題は解決済み」と繰り返したが、2004年5月22日、小泉首相が硬直状況を打開しようとふたたび平壌(ピョンヤン)を訪問し、国防委員長金正日(キムジョンイル)と2度目の会談をした。小泉首相は、国際機関を通じた25万トンの食糧援助、1000万ドル相当の医療援助を約束し、金正日は被害者家族3人の帰国を許可した。

 金正日が拉致被害者の安否について「白紙に戻して再調査する」と約束したことを受けて北京(ペキン)で日朝実務者協議が開催され、安否不明者に関する再調査について北朝鮮側から報告があった。しかし、裏づけとなる具体的な証拠や資料の提示はなく、断片的な経過説明にとどまった。同年11月に平壌で開かれた第3回協議で拉致被害者の横田めぐみ(1964― )の遺骨とされるものが提示されたものの、それを精査した日本側は「まったく不十分といわざるをえない」と結論づけた。

 北朝鮮は、2008年6月に北京で行った日朝実務者協議で「拉致問題は解決済み」というそれまでの態度を変えて、拉致問題の再調査実施を約束した。8月に瀋陽(しんよう)で行った実務者協議で、北朝鮮側の調査委員会が早期に調査を始め、この年の秋に結果を出すことで合意した。日本側は、対北朝鮮経済制裁のうち、人的往来の原則見合わせとチャーター機の発着禁止措置を解除することになった。しかし、日本側で首相の交代が続くなか、北朝鮮側は合意を事実上反故(ほご)にした。

 北朝鮮では2011年末に金正日が死去し、金正恩(キムジョンウン)政権が成立した。日本では2012年末、拉致問題に強い関心をみせる安倍晋三(あべしんぞう)が首相に返り咲き、自らの任期中に解決させることに強い意欲をみせた。

 安倍政権発足に先立つ2012年8月、日本赤十字社と朝鮮赤十字会が10年ぶりの公式協議を北京で行った。議題は、現在の北朝鮮で死亡した日本人の遺骨収集や遺族の墓参であった。太平洋戦争末期の混乱のなか、朝鮮半島には満州(現、中国東北部)からの避難民を含めた多くの日本人が残留した。越冬期の食糧不足や感染症などで軍人と民間人の計約3万4600人が死亡、このうち日本に引き揚げた人が持ち帰った遺骨を除く約2万1600柱が北朝鮮に残っているとされ、日本政府は1952年から海外などでの戦没者の遺骨収集事業を行っているが、北朝鮮地域は手つかずとなっていた。

 北朝鮮は、日本人遺族に墓参のための入国を許可するなど前向きな姿勢をみせ、11月にはウランバートルで外務省局長級協議が開かれた。4年ぶりの政府高官による公式協議において、日本人の遺骨収集問題で協力することで合意、拉致問題については協議を継続することで一致した。

 日朝両国は2014年5月にストックホルムでの外務省局長級協議で、包括的な合意に達した(ストックホルム合意)。北朝鮮は、拉致被害者や終戦時に北朝鮮で死亡した人を含む「全ての日本人に関する調査を包括的かつ全面的に実施し、最終的に、日本人に関する全ての問題を解決する意思」を表明。日本は、北朝鮮側が特別調査委員会を立ち上げて調査を開始する時点で一部の制裁解除に応じる方針を示した。

 北朝鮮は7月1日に北京で開いた局長級協議で、調査委員会の陣容を日本側に伝えた。調査委員会は、国家安全保衛部、人民保安部、人民武力部などの関係者を含む30人程度で構成され、委員長は、国防委員会安全担当参事兼国家安全保衛部副部長徐大河(ソデハ)で、拉致被害者、行方不明者、日本人遺骨問題、残留日本人・日本人配偶者の4分科会が設置されるとした。「行方不明者」は日本側が拉致された可能性を排除できないとしている人を含み、日本側はのちに900人弱の名前を提示した。「残留日本人・日本人配偶者」は、終戦後に日本へ引き揚げなかった人や1950年代末からの帰国事業で在日朝鮮人の夫に同行した日本人妻らをさしている。

 北朝鮮が7月4日、特別調査委員会の設置と調査開始を発表したことを受けて日本は、朝鮮籍者や当局職員の入国禁止、北朝鮮への日本人の渡航自粛など人的往来の制限、北朝鮮への10万円を超える現金持ち出しの届け出義務と300万円超の送金の報告義務、という独自制裁を解除するとともに、全面禁止となっていた北朝鮮船舶の日本の港への入港を人道目的の場合には認めることとした。

 しかし、北朝鮮が2016年1月6日に4回目の核実験、2月7日に事実上の長距離弾道ミサイル発射を強行したことを受けて日本政府は2月10日、解除した制裁の復活に加え、人道目的かつ10万円以下の場合を除いて北朝鮮への送金を原則禁止するなどの制裁強化策を発表した。反発した北朝鮮は同月12日、日本人に関する調査を全面的に中止し、特別調査委員会を解体すると発表した。その後、日朝両国の相互不信はますます深まり、膠着(こうちゃく)状態が続くことになった。

 2018年の南北首脳会談、米朝首脳会談を受けて、2019年5月に安倍晋三が日朝首脳会談を前提条件なしに実現する意向を示したものの北朝鮮は応じず、拉致問題を「最重要課題」に掲げた安倍政権下で実質的な進展はみられなかった。

[礒﨑敦仁 2021年6月21日]

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知恵蔵 「日朝関係」の解説

日朝関係

5年間の小泉外交の目玉であった対北朝鮮外交は破綻に終わったといえよう。2002年9月17日小泉純一郎首相は平壌を訪問、金正日(キム・ジョンイル)国防委員長と会談した。この会談直前に日本側に明らかにされた拉致事件の調査報告で、拉致被害者のうち8人の死亡、5人の生存が判明。金国防委員長は会談冒頭で、特殊機関の一部の行動と認め謝罪した。会談では北朝鮮における核開発、ミサイル、工作船、日本の植民地支配と補償、などが話し合われた。会談後調印された日朝平壌宣言には、(1)日本は過去の植民地支配で多大な損害と苦痛を与えたことに対し反省とおわびの気持ちを表明したこと、(2)国交正常化後、無償・有償などの経済協力を行うこと、(3)「日本国民の生命と安全にかかわる」問題が再び生ずることのないよう適切な措置をとること、(4)朝鮮半島の核問題の解決のため国際的合意を順守し、ミサイル発射実験の凍結を03年以降も延長すること、(5)正常化交渉の10月再開、などが盛り込まれた。10月中旬拉致被害者5人は帰国し、日本永住を表明し故郷で暮らしている。その後北朝鮮の核問題と拉致問題が懸案となったが、関係は進展をみせず、04年5月22日小泉首相は再び平壌を訪問した。首脳会談で小泉首相は、国際機関を通しての25万tの食糧援助と1000万ドル相当の医薬品支援を表明し、拉致被害者の家族5人と帰国した。その後、5月の首相訪朝時には実現しなかった、拉致被害者の曽我ひとみさんの家族の帰国問題が浮上し、7月中旬夫のジェンキンス氏ら家族3人が帰国した。他方、拉致問題等で国内世論は硬化し、04年2月9日北朝鮮に独自に経済制裁を科すことができる改正外為法が成立し、6月14日には万景峰号などの北朝鮮船舶の日本入港を禁止することができる特定船舶入港禁止特措法が成立した。また、9月の実務者協議ではその他の拉致被害者の問題は進展せず、11月に返還された横田めぐみさんの遺骨は、日本国内で行ったDNA鑑定の結果、別人とされた。05年2月11日北朝鮮が核保有を宣言するなかで、焦点は6者協議に移り、7月26日1年1カ月ぶりに再開されたが、同年11月以降、休会している。拉致問題の行き詰まり、6者協議の停滞のなか、06年7月の北朝鮮によるミサイル発射も加わり、関係打開の道は閉ざされたままである。

(高橋進 東京大学大学院法学政治学研究科教授 / 2007年)

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