方苞(読み)ほうほう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「方苞」の意味・わかりやすい解説

方苞
ほうほう
(1668―1749)

中国、清(しん)代の学者、古文作家。字(あざな)は霊皋(れいこう)、号は望渓(ぼうけい)。安徽(あんき)省桐城(とうじょう)県が本籍だが、曽祖父(そうそふ)の代からは江寧(こうねい)府上元県に住む。父の仲舒(ちゅうじょ)(1638―1707)は詩をよくし、明(みん)の遺老たちと交遊した。兄舟も八股文(はっこぶん)の名手で、龔自珍(きょうじちん)に影響を与えている。1706年(康煕45)の進士。文字の獄、南山集事件に連座し、ようやくにして死を免れ、のち官は礼部侍郎に至った。明の帰有光の唐宋(とうそう)派を継承して、桐城派古文の義法理論を確立。義とは文章の内容が宋学の精神に背かないことを意味し、法とはその形式が古文家の法度にもとらないことを意味する。彼の文章は素朴で簡潔である。礼の学に力を入れ、『礼記析疑』『儀礼析疑』がある。文集には『望渓文集』『望渓文集外文』『望渓文集外文補遺』がある。

佐藤一郎 2016年3月18日]

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改訂新版 世界大百科事典 「方苞」の意味・わかりやすい解説

方苞 (ほうほう)
Fāng Bāo
生没年:1668-1749

中国,清代の文学者。字は霊皋(れいこう),号は望渓。本籍は安徽省桐城県であるが曾祖父の代より,江寧府上元県(南京市)に住む。清代最大の文学流派である桐城派古文の創始者。父の方仲舒は明の遺老銭澄之,杜濬(としゆん)らの詩人と親しい詩人であり,兄の方舟八股文の名手である。しかし進士に及第したのは1706年(康煕45),すでに数えの39歳になってからである。代表的な〈文字(もんじ)の獄〉の一つの南山集事件に連座入獄し,〈獄中雑記〉を執筆した。宰相李光地の弁護もあって官界に復活した彼は,22年に武英殿修書総裁となり,雍正・乾隆帝に仕えて官は礼部侍郎に達した。経学では《礼記(らいき)析疑》48巻,《儀礼析疑》17巻など礼に詳しく,古文作家としては〈義法〉を説き,宋学の精神にもとづく厳格で地味な作風を確立した。その理論は《史記評語》と《左伝義法挙要》に,文章は《望渓文集》18巻,《望渓集外文》10巻,《望渓集補遺》2巻に集められている。詩は作らなかった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「方苞」の意味・わかりやすい解説

方苞
ほうほう
Fang Bao

[生]康煕7(1668)
[没]乾隆14(1749)
中国,清の文学者。安徽省桐城県の人。字,霊皋 (れいこう) 。号,望渓。康煕 45 (1706) 年進士に及第,同 50年筆禍事件に連座し奴隷の身分に落された。のち許され翰林院侍講学士,礼部侍郎に進み,乾隆7 (42) 年官を退いて帰郷,82歳で没した。特に「義法」「文律」の説を唱え,儒教の理念を重んじ,華麗と卑俗を排して簡潔で典雅な文章を主張,同郷の後輩劉大かい (りゅうだいかい) ,姚 鼐 (ようだい) らがそれを唱道したので,やがて桐城派と呼ばれる一派となり,その開祖と称された。主著『礼記析疑 (せきぎ) 』 (48巻) ,『儀礼析疑』 (17巻) ,『望渓先生文集』 (30巻) 。

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世界大百科事典(旧版)内の方苞の言及

【中国文学】より

… 清朝でも古文の勢力は衰えなかった。その主流は桐城(とうじよう)派とよばれ,開祖とされるのは方苞(ほうほう)で,姚鼐(ようだい)がこれを盛んにした。この派は帰有光の文を高く評価する。…

【桐城派】より

…中国,清代古文の一派,また最大の文学流派名。安徽省桐城県出身の方苞(ほうほう)が基礎をつくり,継承者の劉大櫆(りゆうだいかい),姚鼐(ようだい)がいずれも同県出身のために,この名がある。明代の唐・宋派の系譜に立ち,宋学の学統を守る〈道の文学〉を目指して文章の〈義法〉,すなわち内面的理法と外形的法則の調和を説き,簡潔で質実な文章を書いた。…

※「方苞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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