中国,明代の文人。江蘇崑山の人。字は煕甫,震川先生と称された。嘉靖44年(1565)60歳で進士となり,長興知県,順徳府通判,南京太僕寺丞を歴任。《史記》,韓愈,欧陽修の古文を好み,その〈花史館記〉は《史記》に心酔したことを示す一例。当時の文壇は後七子の勢力が強く,彼はその中心である李攀竜(りはんりゆう),王世貞らを〈妄庸の巨子〉と批判し,王世貞らも,彼の古文を認めなかった。王世貞は晩年に〈帰太僕賛〉を作り〈千載公有って韓・欧陽を継ぐ〉とほめた。銭謙益が《列朝詩集》の小伝で,その独自の古文を推称してから,清朝の桐城派の古文の範となった。また長く科挙に苦しんだために,経義に通じ八股文(はつこぶん)の名手であった。彼の古文には八股文の手法をいかした面が,独自の作風となって,評価される。巷間に流布している帰有光評点と称する《史記》は,帰有光の名をかたった偽作である。
執筆者:横田 輝俊
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中国、明(みん)代中期の古文家。字(あざな)は煕甫(きほ)、号は震川(しんせん)。崑山(こんざん)県(江蘇(こうそ)省)の人。1565年(嘉靖44)60歳で会試に及第、南京太僕寺丞(ナンキンたいぼくじじょう)に至った。文壇の主流で秦(しん)漢の文を模倣する前後七子(しちし)らの古文辞すなわち偽古文派を鋭く批判し、唐宋(とうそう)の詩文を規範として対立、その領袖(りょうしゅう)王世貞(おうせいてい)らを妄庸(もうよう)の巨子(きょし)とこき下ろした。彼は司馬遷(しばせん)、唐宋八大家を承(う)け継ぎ、後の方苞(ほうぼう)、姚鼐(ようだい)ら清(しん)の桐城(とうじょう)派古文を導く明代第一の古文家として今日評価されるが、その文は簡潔を極め、身辺のこと、家族のことに筆が及ぶとき、叙情豊かに精彩を帯びる。「寒花葬志」「先妣(せんぴ)事略」などは名文として名高い。著書に『震川先生集』30巻、『同別集』10巻がある。
[都留春雄]
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…もっとも,韓愈のスタイルは独特のものであって,七子らはそれをまねることを好まなかった。 七子らの主張に反対して,韓・柳の古文を学ぶべきことを公言したのは唐順之と帰有光である。唐宋八家の名もこのときに定まったのであった。…
※「帰有光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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