コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

帰有光 きゆうこうGui You-guang

4件 の用語解説(帰有光の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

帰有光
きゆうこう
Gui You-guang

[生]正徳1(1506)
[没]隆慶5(1571)
中国,明の文学者。蘇州崑山県 (江蘇省) の人。字,煕甫 (きほ) 。号,震川 (しんせん) 。嘉靖 19 (1540) 年挙人に及第,以後会試に落第し続け,嘉定の安亭江畔で学問教育の生活をおくり,同 44年 60歳で進士に及第,長興知県,順徳府通判を経て隆慶4 (70) 年南京太僕寺寺丞に進み,『世宗実録』編纂に従事中没した。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

き‐ゆうこう〔‐イウクワウ〕【帰有光】

[1506~1571]中国、明の文人。崑山(江蘇省)の人。字(あざな)は熙甫(きほ)、号は震川。身辺の雑事を繊細かつ叙情的に描いた散文は高く評価され、王世貞と並んで明代散文作家の代表者とされる。

出典|小学館
デジタル大辞泉について | 情報 凡例

世界大百科事典 第2版の解説

きゆうこう【帰有光 Guī Yŏu guāng】

1506‐71
中国,明代の文人。江蘇崑山の人。字は熙甫,震川先生と称された。嘉靖44年(1565)60歳で進士となり,長興知県,順徳府通判,南京太僕寺丞を歴任。《史記》,韓愈,欧陽修の古文を好み,その〈花史館記〉は《史記》に心酔したことを示す一例。当時の文壇は後七子の勢力が強く,彼はその中心である李攀竜(りはんりゆう),王世貞らを〈妄庸の巨子〉と批判し,王世貞らも,彼の古文を認めなかった。王世貞は晩年に〈帰太僕賛〉を作り〈千載公有って韓・欧陽を継ぐ〉とほめた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

帰有光
きゆうこう
(1506―1571)

中国、明(みん)代中期の古文家。字(あざな)は煕甫(きほ)、号は震川(しんせん)。崑山(こんざん)県(江蘇(こうそ)省)の人。1565年(嘉靖44)60歳で会試に及第、南京太僕寺丞(ナンキンたいぼくじじょう)に至った。文壇の主流で秦(しん)漢の文を模倣する前後七子(しちし)らの古文辞すなわち偽古文派を鋭く批判し、唐宋(とうそう)の詩文を規範として対立、その領袖(りょうしゅう)王世貞(おうせいてい)らを妄庸(もうよう)の巨子(きょし)とこき下ろした。彼は司馬遷(しばせん)、唐宋八大家を承(う)け継ぎ、後の方苞(ほうぼう)、姚(ようだい)ら清(しん)の桐城(とうじょう)派古文を導く明代第一の古文家として今日評価されるが、その文は簡潔を極め、身辺のこと、家族のことに筆が及ぶとき、叙情豊かに精彩を帯びる。「寒花葬志」「先妣(せんぴ)事略」などは名文として名高い。著書に『震川先生集』30巻、『同別集』10巻がある。[都留春雄]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の帰有光の言及

【中国文学】より

…もっとも,韓愈のスタイルは独特のものであって,七子らはそれをまねることを好まなかった。 七子らの主張に反対して,韓・柳の古文を学ぶべきことを公言したのは唐順之と帰有光である。唐宋八家の名もこのときに定まったのであった。…

※「帰有光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

帰有光の関連キーワードアフォンソ県の地域医療再生計画稲叢山帰有光雪舟メッヘレン阿蘇五岳燕山君ジグムント[1世]ビヒザード

今日のキーワード

百条委員会

地方自治体が議決により設置する特別委員会の一つ。名称は「地方自治法第100条」に基づく。百条委員会は、地方公共団体の事務に関する調査を行い、関係者への聞き取りや記録の提出を請求、拒否した者には罰則が科...

続きを読む

コトバンク for iPhone