中国の筆禍事件,おもに清代のそれを指していう。異民族の王朝であった清朝は,漢民族に対する支配を確立するために,入関当初から強圧的な姿勢で臨んだ。とくに民族意識の強い知識人に対してはそうであって,このためしばしば筆禍事件が起こった。1663年(康煕2)の〈明史の獄〉は,浙江の荘廷鑨(そうていろう)が朱国禎の家から入手して刊行した《明史》のなかに清朝に対する誹謗があったことを理由に,荘廷鑨の死体を暴き,家族を死刑に,さらに出版に関与したものをも含め,70余名を死刑にするという厳罰に処したものである。さらに1711年には〈南山集事件〉が起こった。戴名世(1653-1713)の著した《南山集》の中に,明の亡命政権の清朝に対する抵抗を正当化した部分のあったことを理由に,戴名世の一族を死刑に,その他の関係者を流刑にして黒竜江省に送った。これによって罪に処せられたものは数百人の多数にのぼったという。雍正年間(1723-35)に入ると,科挙の試験官査嗣庭の出題に,〈維民所止〉とあったのを,雍正の文字の頭を刎(は)ねたものとして,不敬罪に処して獄死せしめ,あるいは反逆を企図した曾静が,呂留良の思想的影響を受けていたことが判明すると,呂留良の子等を死刑にするなど厳罰をもって臨んだ。しかし,転向した曾静に対しては,むしろ寛容を示し,その訊問の記録を《大義覚迷録》として頒布して,清朝支配の正当性を理論的に主張するなど,その思想支配はいっそう巧妙なものとなった。
乾隆年間(1736-95)に入っても徐述夔(じよじゆつき)事件など文字の獄は続いたが,その一方では《四庫全書》の編纂という一大文化事業を起こし,各地から上呈させた文献の思想調査を行って,禁書のリストを公表した。この思想調査に合格したものが《四庫全書》におさめられたのである。このような清朝の思想弾圧の結果,知識人たちは現実逃避の傾向を深め,反清的言辞をあえて言おうとしなくなった。〈乾嘉(乾隆・嘉慶)の学〉と称せられる清朝考証学は,この恐怖時代の産物として生まれたものであった。
執筆者:小野 和子
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中国の筆禍事件。秦(しん)の統一(前221)以来、歴代王朝にみられるが、とくに清(しん)朝の第4代康煕(こうき)帝(在位1661~1722)、第5代雍正(ようせい)帝(在位1722~35)、第6代乾隆(けんりゅう)帝(在位1735~95)時代の獄が有名。このため一般には、清代の事件をさす。清朝の盛時に集中していることは、異民族王朝である清が、民族的立場から中国の夷狄(いてき)思想に対する思想統制を、この時期に強く推進したことを示す。1661年に起きて63年に終結した荘廷(そうていろう)の明(みん)史稿事件、1711年に起きて13年に終結した戴名世(たいめいせい)の南山集案事件、1726年に起きた査嗣庭(さしてい)の試題案事件、1778年に起きた徐述夔(じょじゅつき)の一柱楼(いっちゅうろう)詩案事件など多くの例をみるが、発生件数は乾隆年間に著しい。関係史料を集めたものに『清代文字獄檔(もんじごくとう)』がある。
[石橋崇雄]
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秦漢以来の中国諸王朝にみられる思想統制を反映した筆禍事件。なかでも異民族王朝であった清朝の筆禍事件が史上名高く,特に康熙(こうき)帝,雍正(ようせい)帝,乾隆(けんりゅう)帝の3代にわたる盛時に最も激しさを加えた。雍正時代の査嗣庭(さしてい)事件はその著例であり,郷試(きょうし)の問題中の一節「維民所止」の維と止は,雍正帝の頭をはねる意図があるとして,出題者の一族を処罰した。
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…康熙(1662‐1722)の末年,南明政権の記述をした戴名世が斬死に処せられ,雍正期(1723‐35)には華夷の別を説く朱子学者呂留良のしかばねがさらされた。これら一連の文字の獄がめざすものは,反満思想の根絶であるが,この思想弾圧は乾隆期(1736‐95)に入るといっそう厳しさを加え,《四庫全書》編纂のため各地から蔵書を集めると同時に検閲を加え,禁止すべき書物を抽出した。その数は浙江省だけで538種,1万3862部にのぼる。…
…文字の獄。著書や新聞雑誌その他に発表した文章が,権力批判,風俗壊乱を理由に官憲の処罰の対象となり,体刑,罰金,発売禁止などの処分をうけること。…
※「文字の獄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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