文字の獄(読み)モンジノゴク

デジタル大辞泉 「文字の獄」の意味・読み・例文・類語

もんじ‐の‐ごく【文字の獄】

中国の諸王朝で起こった筆禍事件の総称。特に朝の康熙帝雍正帝乾隆帝時代のものが有名。満州出身の清朝は、その政治に反抗的な言辞を筆にした漢人を激しく弾圧著者を極刑に処すとともにその著書禁書とした。

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精選版 日本国語大辞典 「文字の獄」の意味・読み・例文・類語

もんじ【文字】 の 獄(ごく)

  1. 中国の諸王朝で起こった思想統制の筆禍事件。特に、満州族出身の清朝の康熙・雍正・乾隆時代に清朝に対して反抗的言辞を弄(ろう)する漢人を弾圧し、清朝に不利な書物を禁書とした事件が知られる。もじのごく。

もじ【文字】 の 獄(ごく)

  1. もんじ(文字)の獄

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改訂新版 世界大百科事典 「文字の獄」の意味・わかりやすい解説

文字の獄 (もんじのごく)

中国の筆禍事件,おもに清代のそれを指していう。異民族の王朝であった清朝は,漢民族に対する支配を確立するために,入関当初から強圧的な姿勢で臨んだ。とくに民族意識の強い知識人に対してはそうであって,このためしばしば筆禍事件が起こった。1663年(康煕2)の〈明史の獄〉は,浙江荘廷鑨(そうていろう)が朱国禎の家から入手して刊行した《明史》のなかに清朝に対する誹謗があったことを理由に,荘廷鑨の死体を暴き,家族を死刑に,さらに出版に関与したものをも含め,70余名を死刑にするという厳罰に処したものである。さらに1711年には〈南山集事件〉が起こった。戴名世(1653-1713)の著した《南山集》の中に,明の亡命政権の清朝に対する抵抗を正当化した部分のあったことを理由に,戴名世の一族を死刑に,その他の関係者を流刑にして黒竜江省に送った。これによって罪に処せられたものは数百人の多数にのぼったという。雍正年間(1723-35)に入ると,科挙の試験官査嗣庭の出題に,〈維民所止〉とあったのを,雍正の文字の頭を刎(は)ねたものとして,不敬罪に処して獄死せしめ,あるいは反逆を企図した曾静が,呂留良思想的影響を受けていたことが判明すると,呂留良の子等を死刑にするなど厳罰をもって臨んだ。しかし,転向した曾静に対しては,むしろ寛容を示し,その訊問の記録を《大義覚迷録》として頒布して,清朝支配の正当性を理論的に主張するなど,その思想支配はいっそう巧妙なものとなった。

 乾隆年間(1736-95)に入っても徐述夔(じよじゆつき)事件など文字の獄は続いたが,その一方では《四庫全書》の編纂という一大文化事業を起こし,各地から上呈させた文献の思想調査を行って,禁書のリストを公表した。この思想調査に合格したものが《四庫全書》におさめられたのである。このような清朝の思想弾圧の結果,知識人たちは現実逃避の傾向を深め,反清的言辞をあえて言おうとしなくなった。〈乾嘉(乾隆・嘉慶)の学〉と称せられる清朝考証学は,この恐怖時代の産物として生まれたものであった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文字の獄」の意味・わかりやすい解説

文字の獄
もじのごく

中国の筆禍事件。秦(しん)の統一(前221)以来、歴代王朝にみられるが、とくに清(しん)朝の第4代康煕(こうき)帝(在位1661~1722)、第5代雍正(ようせい)帝(在位1722~35)、第6代乾隆(けんりゅう)帝(在位1735~95)時代の獄が有名。このため一般には、清代の事件をさす。清朝の盛時に集中していることは、異民族王朝である清が、民族的立場から中国の夷狄(いてき)思想に対する思想統制を、この時期に強く推進したことを示す。1661年に起きて63年に終結した荘廷(そうていろう)の明(みん)史稿事件、1711年に起きて13年に終結した戴名世(たいめいせい)の南山集案事件、1726年に起きた査嗣庭(さしてい)の試題案事件、1778年に起きた徐述夔(じょじゅつき)の一柱楼(いっちゅうろう)詩案事件など多くの例をみるが、発生件数は乾隆年間に著しい。関係史料を集めたものに『清代文字獄檔(もんじごくとう)』がある。

[石橋崇雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「文字の獄」の意味・わかりやすい解説

文字の獄
もじのごく
wen-zi yu; wên-tzü yü

中国,特に清朝の康煕・雍正・乾隆年間 (1662~1795) に行われた思想統制を背景とする筆禍事件をいう。思想統制的な取締りや禁書,筆禍事件は広く中国歴代の諸王朝にみられた現象で,清代だけにかぎらない。清代に特に激しさを加えたのは清朝が歴代の漢民族王朝の思考や伝統とは異なる満州王朝であったことと関係深く,漢人の夷狄思想に対する弾圧がきびしかった。その代表的な例に雍正帝が『大義覚迷録』を著わし,清 (満州王朝) の正統性を主張したことがある。そのほか筆禍事件の例としては,康煕時代,明の年号を著書に用いて一族とともに死刑にされた戴名世事件や,雍正時代,時事風刺をしたため,死後死体をあばかれ,一族も投獄された査嗣庭事件など数多く,特に乾隆時代に激しかったが,嘉慶以後は考証学の発達もあって,影をひそめた。

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百科事典マイペディア 「文字の獄」の意味・わかりやすい解説

文字の獄【もんじのごく】

中国の筆禍事件で,おもに清代のそれを指す。清朝は異民族出身であったため,攘夷思想を警戒し,康煕帝雍正帝乾隆帝の最盛期に最も激しかった。雍正帝時代の査嗣庭事件(郷試の出題中〈維民所止〉の句は維と止を使い雍正の頭をはねたとし,一族処刑),同じく呂留良事件(呂留良の死後,曾静の謀叛(むほん)が発覚,ために呂の著書は焼かれ,墓があばかれた)などは著名。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「文字の獄」の解説

文字の獄(もんじのごく)

秦漢以来の中国諸王朝にみられる思想統制を反映した筆禍事件。なかでも異民族王朝であった清朝の筆禍事件が史上名高く,特に康熙(こうき)帝雍正(ようせい)帝乾隆(けんりゅう)帝の3代にわたる盛時に最も激しさを加えた。雍正時代の査嗣庭(さしてい)事件はその著例であり,郷試(きょうし)の問題中の一節「維民所止」の維と止は,雍正帝の頭をはねる意図があるとして,出題者の一族を処罰した。


文字の獄(もじのごく)

文字(もんじ)の獄(ごく)

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旺文社世界史事典 三訂版 「文字の獄」の解説

文字の獄
もんじのごく

中国での筆禍事件。特に清の康熙 (こうき) ・雍正 (ようせい) ・乾隆 (けんりゆう) 時代のものが有名
明代以前にも例はあるが,異民族王朝である清朝下では,少しでも反清・反満的な言論や著作をする者は極刑にされた。乾隆帝は『禁書目録』を作って該当書の所蔵を禁じ,また『四庫 (しこ) 全書』編集の目的の1つは書籍の検閲にあった。そのため学者は現実から逃避し,考証学に没頭した。

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世界大百科事典(旧版)内の文字の獄の言及

【禁書】より

…康熙(1662‐1722)の末年,南明政権の記述をした戴名世が斬死に処せられ,雍正期(1723‐35)には華夷の別を説く朱子学者呂留良のしかばねがさらされた。これら一連の文字の獄がめざすものは,反満思想の根絶であるが,この思想弾圧は乾隆期(1736‐95)に入るといっそう厳しさを加え,《四庫全書》編纂のため各地から蔵書を集めると同時に検閲を加え,禁止すべき書物を抽出した。その数は浙江省だけで538種,1万3862部にのぼる。…

【筆禍】より

…文字の獄。著書や新聞雑誌その他に発表した文章が,権力批判,風俗壊乱を理由に官憲の処罰の対象となり,体刑,罰金,発売禁止などの処分をうけること。…

※「文字の獄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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