中国、清(しん)末の詩人、学者。字(あざな)は人(しつじん)、号は定盦(ていあん)。浙江(せっこう)省杭州(こうしゅう)城内の生まれ。祖父も父も進士出身の官僚であり、母は著名な考証学者段玉裁(だんぎょくさい)の娘という環境に育った。12歳から外祖父玉裁より文字学を習い、このことが後年の詩に難解な字を多用するという傾向をもたらした一因であろう。進士に合格したのは38歳と遅く、礼部主客司主事を最後に48歳で辞職した。その2年後に江南の丹陽で急死。彼は挙人(きょじん)になった翌年、28歳から劉逢禄(りゅうほうろく)より公羊(くよう)学を学び、政治の現状に対する批判の目を開かれた。詩はきわめて個性的で異常な感覚に富み、憂愁の陰を色濃く落としている。清末の危機の時代を予感した詩人として、中華民国にかけて多くの志士たちに愛読された。『龔自珍全集』がある。
[佐藤一郎 2016年3月18日]
『田中謙二注『中国詩人選集二集14 龔自珍』(1962・岩波書店)』
中国,清代の学者,詩人。字は璱人(しつじん),定盦(ていあん)と号し,浙江省杭州の人。父祖2代にわたる官僚家庭に生まれ,また清朝有数の言語学者段玉裁を祖父にもつ。幼少より異常な神経をそなえた多感の才子で,時代の落莫をいち早く察知して憂悶し,ことに劉逢禄に師事して公羊学に傾倒すると,革新への情熱をたぎらせた。しかし,中央政府の校書官としてスタートした官途は挫折しがちで,38歳にしてようやく進士に及第,仏教信仰の影響もあって隠棲を志し,48歳で引退帰郷した。その間,実際政治の場では不可能に帰した理想の実現を著作に託する一方,たえまなくおそう憂悶を詩に噴出させた。学術著に《春秋決事比》《大誓答問》があるほか,革命の到来を予言した散文《尊隠》が著名である。その詩は異様な表現を用いて魂の飛翔と安息への希求をうたう。《龔自珍全集》11巻(1975)がもっとも備わっている。
執筆者:田中 謙二
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…ところが前漢の末ごろ,劉歆(りゆうきん)が《春秋左氏伝》をはじめ古文経書を重んじ,王莽(おうもう)が政権をにぎって,古文経書を博士官の教科書として以後,公羊学は衰え,後漢時代に何休が《春秋公羊伝解詁》を著したものの,学界では訓詁を重んずる古文学が主流となった。 その後,清代中ごろに至り,まず常州(江蘇省)の荘存与(1719‐88)が《春秋公羊伝》を顕彰し,ついで劉逢禄が何休の公羊学を重んじ《左氏伝》は劉歆の偽作だと指摘し,さらに龔自珍(きようじちん),魏源は,現実を遊離した考証学的学風を批判し,当面の崩壊しつつある王朝体制を救うために,何休の公羊学にもとづいて〈変〉の観念を強調した。しかし,公羊学を最も重んじて政治変革の理論的根拠としたのは,戊戌(ぼじゆつ)変法(1898)の指導者,康有為である。…
…17世紀末から18世紀初めの黄宗羲(こうそうぎ),顧炎武,朱彝尊らに始まって,多数の学者がそれぞれに独自のスタイルの散文を書いた。そして中期をすぎると経学の今文(きんぶん)派がまた新しいスタイルを始め,龔自珍(きようじちん)は康有為,梁啓超の新聞体の散文が出るさきがけをなした。明末から四六文が復興し,清朝に入って盛んになった。…
※「龔自珍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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