デジタル大辞泉
「正慶」の意味・読み・例文・類語
しょうきょう〔シヤウキヤウ〕【正慶】
鎌倉末期、光厳天皇の時の年号。1332年4月28日~1333年5月25日。しょうけい。
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しょうきょう シャウキャウ【正慶】
鎌倉末期、光厳天皇の代の年号。光厳天皇は
鎌倉幕府と
後醍醐天皇の
政争により、
幕府に擁立されて
元弘元年(
一三三一)後伏見上皇の詔によって
践祚、
政務を執り行なった。同二年三月、後
醍醐天皇が
隠岐に遷され、四月二八日、正慶と
改元。翌年五月、鎌倉幕府滅亡とともに光厳天皇は廃され、正慶年号も
廃止され元弘に復した。
出典は「易経‐益卦」に「利
レ有
レ攸
レ往、中正有
レ慶」とあり、注に「以
二中正有慶之徳
一、有
レ攸
レ往也、何適而不
レ利哉」とあるのによる。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
しょうきょう【正慶】
日本の元号(年号)。鎌倉時代の1332年から1333年まで、光厳(こうごん)天皇の代の持明院統(じみょういんとう)(後の北朝)が使用した元号。前元号は元徳(げんとく)。次元号は元弘(げんこう)。1332年(元徳4)4月28日改元。光厳天皇の即位にともない行われた(代始改元)。『周易注疏(しゅうえきちゅうそ)』を出典とする命名。正慶年間の鎌倉幕府の将軍は守邦(もりくに)親王(9代、鎌倉幕府最後の将軍)。執権は北条(赤橋)守時(もりとき)(16代)。1331年(元徳3)、討幕計画が発覚して身辺の危険を感じた後醍醐(ごだいご)天皇は京都を脱出、笠置(かさぎ)山に籠城して元弘(げんこう)の変が起こる。その最中、後醍醐は「元弘」と改元するが、鎌倉幕府と持明院統はこの改元を認めず、引き続き「元徳」を使い続けた。さらに、後醍醐を廃帝として光厳天皇を擁立し、新元号を「正慶」と定めたが、後醍醐ら大覚寺統(だいかくじとう)は引き続き元弘の元号を使用した。1333年(正慶2/元弘3)に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐は京都へ帰還して親政を開始する(建武の新政)。光厳の退位にともない正慶の元号も廃止(無効)となり、元弘に復帰した。◇「しょうけい」とも読む。
しょうけい【正慶】
出典 講談社日本の元号がわかる事典について 情報