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光厳天皇 こうごんてんのう

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美術人名辞典の解説

光厳天皇

北朝初代の天皇。後伏見天皇の第一皇子、母は広義門院。御名は量仁、法名は勝光智。後醍醐天皇皇太子となり、北条高時に擁立されて践祚されたが、北条政権の滅亡により退位し、太上天皇となられる。のち足利尊氏の要請で弟光明天皇が即位されると、光厳院は院政を開始された。のち南朝軍の京都進出によって捕えられ、落飾され、禅道に入られて夢窓疎石に帰依された。正平19・貞治3年(1364)崩御、52才。

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デジタル大辞泉の解説

こうごん‐てんのう〔クワウゴンテンワウ〕【光厳天皇】

[1313~1364]北朝第1代天皇。在位1331~1333。後伏見天皇の第1皇子。名は量仁(かずひと)。鎌倉幕府の支持によって後醍醐天皇の皇太子に立ち、即位。建武の中興で退位後、院政を執った。日記「光厳院宸記」がある。

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百科事典マイペディアの解説

光厳天皇【こうごんてんのう】

鎌倉末期の天皇。後伏見天皇の皇子。1331年北条高時に擁立されて即位。1333年北条氏の滅亡で退位し太上(だいじょう)天皇となった。足利尊氏が光明(こうみょう)天皇を立てると院政を行った。
→関連項目後光厳天皇崇光天皇

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

光厳天皇 こうごんてんのう

1313-1364 南北朝時代,北朝第1代天皇。在位1331-33。
正和(しょうわ)2年7月9日生まれ。後伏見天皇の第1皇子。母は藤原寧子(広義門院)。鎌倉幕府の意向で後醍醐(ごだいご)天皇にかわって即位した持明院統の天皇。幕府滅亡で復位した後醍醐により廃された。のち同母弟の光明天皇,子の崇光(すこう)天皇のとき院政をおこなった。北朝が一時南朝に屈した(正平(しょうへい)一統)あとは出家し,晩年は丹波常照寺で禅に精進した。貞治(じょうじ)3=正平19年7月7日死去。52歳。墓所は山国陵(やまくにのみささぎ)(京都府京北町)。諱(いみな)は量仁(かずひと)。法名は勝光智,無範。日記に「光厳院御記」。
【格言など】十年(ととせ)あまり世を助くべき名は旧(ふ)りて民をし救ふ一事もなし(「新後拾遺和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

光厳天皇

没年:貞治3/正平19.7.7(1364.8.5)
生年:正和2.7.9(1313.8.1)
北朝初代の天皇。後伏見天皇の第1皇子。母は左大臣西園寺公衡の娘寧子(広義門院)。名は量仁。後醍醐天皇の皇太子には邦良親王がたてられていたが,親王が没すると鎌倉幕府の支持によって量仁親王が皇太子とされた。元弘の変(1331)によって後醍醐天皇が笠置に遷幸すると量仁親王が践祚し,父後伏見天皇が院政を行った。践祚に当たっては後醍醐天皇が神器を笠置に持っていったため,のちに神器を渡されるという異例の即位となった。後醍醐天皇の隠岐島配流(1332),鎌倉幕府の滅亡(1333)と激動のなかにあって,後醍醐天皇が再び皇位に復すると,詔によって光厳天皇は廃され上皇となった。 しかし,後醍醐天皇の建武新政が失敗,建武2(1335)年離反した足利尊氏は,翌年の京都奪回に際して,光厳上皇の院宣を得て朝敵となることを免れた。尊氏の勢力回復に伴い,この年8月,光厳上皇は弟の豊仁親王(光明 天皇)を践祚させ,自ら院政に当たった。一方,後醍醐天皇は吉野に遷幸,南北朝に分裂したのである。上皇の院政は次の崇光天皇(光厳上皇の皇子)にもおよんだが,南朝勢力の回復により,南朝の後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)は観応2/正平6(1351)年,崇光天皇を廃した。光厳はじめ光明,崇光の北朝3代の上皇は,翌年から,南朝の拠点・河内(大阪府)東条,大和(奈良県)賀名生など点々と移された。その後,光厳上皇は禅僧夢窓疎石に帰依し,文和1/正平7(1352)年賀名生で出家した。法名を勝光智という。河内の金剛寺に移ってからは孤峰覚明に帰依,法名も光智と改めた。帰京後も禅に帰依し,晩年には丹波国山国(京都府北桑田郡京北町)の常照皇寺で禅僧としての余生を送り,この地で崩じ,同所の山国陵に葬られた。日記に「光厳天皇宸記」がある。<参考文献>『光厳天皇遺芳』『日本史小百科 天皇』

(小森正明)

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世界大百科事典 第2版の解説

こうごんてんのう【光厳天皇】

1313‐64(正和2‐正平19∥貞治3)
北朝第1代の天皇。在位1331‐33年。後伏見天皇の第3皇子。名は量仁,母は広義門院寧子。祖父伏見上皇の意向で持明院統の正嫡として,1326年(嘉暦1)後醍醐天皇の皇太子となった。31年(元弘1)後醍醐天皇の討幕挙兵失敗後,幕府の要請で践祚した。33年後醍醐天皇の隠岐よりの還幸によって退位,太上天皇の号を贈られた。36年(延元1∥建武3)足利尊氏が後醍醐天皇に離反して,光明天皇を擁立し,上皇に院政を奏請したので,以後北朝において崇光天皇の代まで院政をしいた。

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大辞林 第三版の解説

こうごんてんのう【光厳天皇】

1313~1364) 北朝第一代天皇(在位1331~1333)。名は量仁かずひと。後伏見天皇の皇子。後醍醐天皇の皇太子となり、元弘の変後、北条高時に擁立されて践祚せんそ。鎌倉幕府滅亡により退位。建武の新政失敗後、院政を開始。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

光厳天皇
こうごんてんのう

[生]正和2(1313).7.9. 京都
[没]正平19=貞治3(1364).7.7. 京都
北朝第1代の天皇 (在位 1331~33) 。名は量仁 (かずひと) 。後伏見天皇の第1皇子,母は広義門院藤原寧子。嘉暦1 (26) 年両統迭立案により鎌倉幕府に支持され,後醍醐天皇の皇太子となり,元弘1=元徳3 (31) 年,北条高時に擁立されて践祚,翌年即位したが,北条氏が滅ぶと廃され,太上天皇の尊号を受けた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

光厳天皇
こうごんてんのう
(1313―1364)

北朝第1代の天皇(在位1331~33)。名は量仁(ときひと)。法名勝光智、のちに光智。後伏見(ごふしみ)天皇の第1皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。元弘(げんこう)の変中鎌倉幕府の推戴(すいたい)によって皇位についたが、まもなく形勢が逆転し、六波羅探題(ろくはらたんだい)北条氏一族に奉ぜられて東国に逃れる途中、官軍に敗れて帰京した。その間に後醍醐(ごだいご)天皇から廃位せしめられた。建武中興(けんむのちゅうこう)が崩壊して弟の光明(こうみょう)天皇が位につくと、院政の主として政務をとった。しかしながらその後足利(あしかが)氏の内訌(ないこう)によって南朝が優勢となり、北朝が廃せられると、光明、崇光(すこう)両上皇らとともに幽閉の身となり、南朝の根拠地たる大和(やまと)(奈良県)の賀名生(あのう)および河内(かわち)(大阪府)天野(あまの)の金剛寺に幽居の数年を過ごし、その間に出家を遂げた。光厳天皇は先に夢窓疎石(むそうそせき)を尊信して禅宗に帰依(きえ)したが、のちに孤峯覚明(こほうかくみょう)を深く尊信し、また清渓通徹(せいけいつうてつ)や春屋妙葩(しゅんおくみょうは)にも師事した。金剛寺から京都郊外の伏見に帰ってからは世俗を絶って光厳院に居住し、晩年には丹波山国(たんばやまぐに)(京都市右京(うきょう)区井戸)の常照寺(じょうしょうじ)に隠棲(いんせい)して禅道に参入し、貞治(じょうじ)3年7月7日同所に崩御。御陵は同寺の後山の山国(やまぐに)陵。[村田正志]
『中村直勝著『光厳天皇』(1961・淡交新社) ▽長谷川端著『太平記――創造と成長』(2003・三弥井書店)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の光厳天皇の言及

【後醍醐天皇】より

… 皇位を左右する鎌倉幕府が否定さるべき存在となるのは当然で,24年(正中1)腹心の貴族,僧侶,美濃源氏等を無礼講の場に集めて練った討幕計画(正中の変)の失敗後も,後醍醐は討幕を断念しなかった。26年(嘉暦1)皇太子邦良の死後,幕府は後伏見天皇の皇子量仁(光厳天皇)を皇太子としたので,後醍醐の地位はさらに危くなり,30年(元徳2)以降,後醍醐は再び討幕に向かって動き出す。しかし,南都北嶺に皇子を入れ,みずから行幸して衆徒を味方につけるとともに,関所停止令を発して商工民をひきつけ,悪党を組織して討幕に驀進(ばくしん)する後醍醐に,近臣吉田定房,北畠親房は危惧を抱き,31年(元弘1)計画は幕府にもれ,後醍醐は笠置で挙兵したが捕らわれて隠岐に流された(元弘の乱)。…

【常照寺】より

…光厳上皇の開基。南北朝内乱期の複雑な政局のなかで,数奇な運命にもてあそばれた北朝初代の光厳天皇は,捕らえられていた南朝後村上天皇の吉野の行宮で1352年(正平7∥文和1)落飾,勝光智・無範和尚と号した。その数年後,上皇は許されて帰洛したが,夢窓国師に師事し,ほどなく従僧1人を供に諸国行脚の旅に出た。…

【風雅和歌集】より

…17番目の勅撰和歌集。略して《風雅集》ともいう。花園上皇の監修,光厳上皇の撰により,北朝の貞和5年(1349)に成る。真名(まな)序,仮名序,春歌(上・中・下),夏歌,秋歌(上・中・下),冬歌,旅歌,恋歌(1~5),雑歌(上・中・下),釈教歌,神祇歌,賀歌の20巻,約2200首を収める。皇室が持明院統と大覚寺統の2流に分かれて皇位を争った鎌倉時代中期以降,定家―為家と継承された〈歌の家〉御子左家(みこひだりけ)も分裂し,二条家が大覚寺統,京極家が持明院統について,勅撰集撰者の地位を争うようになった。…

【北朝】より

…吉野にあった大覚寺統の朝廷に対し,北方にあったので北朝とよばれ,光明,崇光,後光厳,後円融,後小松の5代の天皇が皇位についた。鎌倉後期に天皇家は持明院・大覚寺両統に分裂,皇位継承や皇室領荘園をめぐる抗争が続いたが,大覚寺統の後醍醐天皇が親政を実現し,活発な政治活動をおこなって鎌倉幕府と対立し,元弘の乱によって京都を追われたため,以前から幕府に接近していた持明院統の量仁親王が幕府に擁立されて光厳天皇となり,両朝並立の端緒が開かれた。その後,後醍醐天皇の復帰,鎌倉幕府の滅亡によって光厳天皇は退位したが,やがて足利尊氏と後醍醐天皇との間が決裂して建武政府が分解すると,1336年(延元1∥建武3)尊氏は光厳上皇の弟豊仁親王を擁立して皇位につけ(光明天皇),一方,後醍醐天皇は神器を携えて吉野に逃れ,持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の対立は決定的となった。…

※「光厳天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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