北朝第1代の天皇(在位1331~33)。名は量仁(ときひと)。法名勝光智、のちに光智。後伏見(ごふしみ)天皇の第1皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。元弘(げんこう)の変中鎌倉幕府の推戴(すいたい)によって皇位についたが、まもなく形勢が逆転し、六波羅探題(ろくはらたんだい)北条氏一族に奉ぜられて東国に逃れる途中、官軍に敗れて帰京した。その間に後醍醐(ごだいご)天皇から廃位せしめられた。建武中興(けんむのちゅうこう)が崩壊して弟の光明(こうみょう)天皇が位につくと、院政の主として政務をとった。しかしながらその後足利(あしかが)氏の内訌(ないこう)によって南朝が優勢となり、北朝が廃せられると、光明、崇光(すこう)両上皇らとともに幽閉の身となり、南朝の根拠地たる大和(やまと)(奈良県)の賀名生(あのう)および河内(かわち)(大阪府)天野(あまの)の金剛寺に幽居の数年を過ごし、その間に出家を遂げた。光厳天皇は先に夢窓疎石(むそうそせき)を尊信して禅宗に帰依(きえ)したが、のちに孤峯覚明(こほうかくみょう)を深く尊信し、また清渓通徹(せいけいつうてつ)や春屋妙葩(しゅんおくみょうは)にも師事した。金剛寺から京都郊外の伏見に帰ってからは世俗を絶って光厳院に居住し、晩年には丹波山国(たんばやまぐに)(京都市右京(うきょう)区井戸)の常照寺(じょうしょうじ)に隠棲(いんせい)して禅道に参入し、貞治(じょうじ)3年7月7日同所に崩御。御陵は同寺の後山の山国(やまぐに)陵。
[村田正志]
『中村直勝著『光厳天皇』(1961・淡交新社)』▽『長谷川端著『太平記――創造と成長』(2003・三弥井書店)』
(小森正明)
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北朝第1代の天皇。在位1331-33年。後伏見天皇の第3皇子。名は量仁,母は広義門院寧子。祖父伏見上皇の意向で持明院統の正嫡として,1326年(嘉暦1)後醍醐天皇の皇太子となった。31年(元弘1)後醍醐天皇の討幕挙兵失敗後,幕府の要請で践祚した。33年後醍醐天皇の隠岐よりの還幸によって退位,太上天皇の号を贈られた。36年(延元1・建武3)足利尊氏が後醍醐天皇に離反して,光明天皇を擁立し,上皇に院政を奏請したので,以後北朝において崇光天皇の代まで院政をしいた。51年(正平6・観応2)足利尊氏・義詮の一時南朝降伏により,賀名生(あのう)・河内金剛寺に幽閉され,57年還京した。その間に出家し,帰還後は丹波国山国荘の常照寺に隠棲した。幼時より花園天皇に輔育され,帝王教育を受けながら,波乱万丈の生涯を送った。陵所は京都市の旧京北町にある(山国陵)。
執筆者:飯倉 晴武
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1313.7.9~64.7.7
在位1331.9.20~33.5.25
後伏見天皇の第3皇子。名は量仁(かずひと)。母は広義門院寧子(ねいし)。1326年(嘉暦元)後醍醐天皇の皇太子となる。31年(元弘元)元弘の乱により後醍醐天皇が廃され践祚(せんそ)するが,33年鎌倉幕府滅亡により廃位。36年(建武3・延元元)足利尊氏に擁され院政を開始。52年(文和元・正平7)南朝に拉致され出家。帰京後は丹波国山国(やまぐに)荘の常照寺に隠棲,同寺で没した。
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… 皇位を左右する鎌倉幕府が否定さるべき存在となるのは当然で,24年(正中1)腹心の貴族,僧侶,美濃源氏等を無礼講の場に集めて練った討幕計画(正中の変)の失敗後も,後醍醐は討幕を断念しなかった。26年(嘉暦1)皇太子邦良の死後,幕府は後伏見天皇の皇子量仁(光厳天皇)を皇太子としたので,後醍醐の地位はさらに危くなり,30年(元徳2)以降,後醍醐は再び討幕に向かって動き出す。しかし,南都北嶺に皇子を入れ,みずから行幸して衆徒を味方につけるとともに,関所停止令を発して商工民をひきつけ,悪党を組織して討幕に驀進(ばくしん)する後醍醐に,近臣吉田定房,北畠親房は危惧を抱き,31年(元弘1)計画は幕府にもれ,後醍醐は笠置で挙兵したが捕らわれて隠岐に流された(元弘の乱)。…
…光厳上皇の開基。南北朝内乱期の複雑な政局のなかで,数奇な運命にもてあそばれた北朝初代の光厳天皇は,捕らえられていた南朝後村上天皇の吉野の行宮で1352年(正平7∥文和1)落飾,勝光智・無範和尚と号した。その数年後,上皇は許されて帰洛したが,夢窓国師に師事し,ほどなく従僧1人を供に諸国行脚の旅に出た。…
…17番目の勅撰和歌集。略して《風雅集》ともいう。花園上皇の監修,光厳上皇の撰により,北朝の貞和5年(1349)に成る。真名(まな)序,仮名序,春歌(上・中・下),夏歌,秋歌(上・中・下),冬歌,旅歌,恋歌(1~5),雑歌(上・中・下),釈教歌,神祇歌,賀歌の20巻,約2200首を収める。皇室が持明院統と大覚寺統の2流に分かれて皇位を争った鎌倉時代中期以降,定家―為家と継承された〈歌の家〉御子左家(みこひだりけ)も分裂し,二条家が大覚寺統,京極家が持明院統について,勅撰集撰者の地位を争うようになった。…
…吉野にあった大覚寺統の朝廷に対し,北方にあったので北朝とよばれ,光明,崇光,後光厳,後円融,後小松の5代の天皇が皇位についた。鎌倉後期に天皇家は持明院・大覚寺両統に分裂,皇位継承や皇室領荘園をめぐる抗争が続いたが,大覚寺統の後醍醐天皇が親政を実現し,活発な政治活動をおこなって鎌倉幕府と対立し,元弘の乱によって京都を追われたため,以前から幕府に接近していた持明院統の量仁親王が幕府に擁立されて光厳天皇となり,両朝並立の端緒が開かれた。その後,後醍醐天皇の復帰,鎌倉幕府の滅亡によって光厳天皇は退位したが,やがて足利尊氏と後醍醐天皇との間が決裂して建武政府が分解すると,1336年(延元1∥建武3)尊氏は光厳上皇の弟豊仁親王を擁立して皇位につけ(光明天皇),一方,後醍醐天皇は神器を携えて吉野に逃れ,持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の対立は決定的となった。…
※「光厳天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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