菊地新学(読み)きくち・しんがく

朝日日本歴史人物事典 「菊地新学」の解説

菊地新学

没年:明治15(1882)
生年天保3(1832)
明治期に山形で活躍した写真師。天童生まれ。明治1(1868)年山形に初の写真館を開いたのち,技量を磨くため明治8年に上京,横山松三郎の下で改めて写真術を学び,同時に清水東谷にも師事した。翌9年から山形県令三島通庸の命を受けて,山形県下の近代化促進事業を画家高橋由一と共に記録する仕事を始め,約80景の記録写真として県に提出した。モダニストとして知られる三島通庸は,東京政府への報告を菊地の写真と高橋由一の洋風画で行って,自らの先駆性を中央政界に印象づけるのに利用したが,これによって菊地は日本における建築,土木の記録写真の先駆となった。

(平木収)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菊地新学」の解説

菊地新学 きくち-しんがく

1832-1915 明治時代の写真師。
天保(てんぽう)3年生まれ。菊地東陽祖父出羽(でわ)天童(山形県)の人。江戸で写真術をまなび,明治元年山形初の写真館をひらく。横山松三郎,清水東谷にも師事。9年から山形県令三島通庸(みちつね)の命をうけて都市整備などの山形県下の近代化事業を撮影,日本における土木・建築記録写真の先駆となった。大正4年4月17日死去。84歳。

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