明治初期の洋画家。江戸の下野国佐野藩邸内に生まれる。幼名猪之助(いのすけ),壮年になって之助(いのすけ),維新後に由一と改める。藩主堀田正衡の近習として出仕。はじめ狩野派に学ぶが満足せず,洋画法の学習を志して1862年(文久2)蕃書調所画学局に入り,川上冬崖の指導を受ける。64年(元治1)開成所画学局出役介となるが,油絵の実技がままならないのを知って,横浜居留地のワーグマンや貿易商ショイヤー夫人を訪ねている。67年(慶応3)上海に渡航して,租界地の〈洋務運動〉にも接するが,油絵実技は独力で開発する。この年パリ万国博覧会に油彩画を出品。69年(明治2)ジャーナリスト柳川春三を介してワーグマンとの同居申請を東京府に出すが,不許可となる。71年大学南校画学係教官に任命される(翌年退任)。73年私塾天絵楼を創設(1879年天絵学舎と改称)し,門弟との月例展示会を82年まで開催する。官立系の美術学校を別にすれば,日本で最大の〈画学教場〉であり,創設以来の習学者は150余名にのぼる。由一はこの月例会に《花魁(おいらん)図》や《鮭図》など近代日本洋画の記念碑的な作品を出品,また金刀比羅宮の依頼で《浅草遠望》や《なまり節》など35点の油絵を納めるというように,明治10年(1877)前後まで精力的に制作した。これを前期とすれば,後期の仕事は東北地方の一連の風景画である。81年三島通庸の依嘱で山形県下新道の写生油彩画を描いたのをはじめ,東北三県新道200図の写生を3冊の石版・手彩色で上梓。また写真を参考にした後期の代表作のひとつ《山形市街図》は,対象の質感・量感をみごとにとらえ,幕末期に洋製石版画を見て洋画を志した由一の集大成となっている。89年明治美術会の創設に協力。92年病床で〈高橋由一履歴〉をまとめ,翌年旧天絵学舎の主催で〈油絵沿革展〉を開催,司馬江漢以降の日本の洋画史を展望する作品200余点を展示する。未知の領域であった油絵実技の文字どおり開拓者の生涯であった。
執筆者:酒井 忠康
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明治初期洋画の代表作家。文政(ぶんせい)11年2月5日、下野(しもつけ)国(栃木県)佐野藩士の子として江戸に生まれる。幼名猪之助(いのすけ)、維新後は由一。号は藍川(らんせん)。幼少から狩野(かのう)派ほかを学ぶが、嘉永(かえい)年間(1848~54)に西洋石版画の迫真性に打たれ、1862年(文久2)幕府の洋書調所(ようしょしらべしょ)画学局に入り、川上冬崖(とうがい)のもとで西洋画法を学んだ。また横浜のワーグマンやショイヤー夫人にも指導を受け、67年(慶応3)上海(シャンハイ)に渡航のほか、パリ万国博覧会に出品。73年(明治6)ウィーン万国博覧会に『富嶽(ふがく)大図』を出品、同年日本橋浜町に画塾天絵楼(てんかいろう)(のち天絵社、天絵学舎)を開き、84年まで後進を指導したが、そのなかには川端玉章(かわばたぎょくしょう)、安藤仲太郎(なかたろう)、原田直次郎らがいた。77年の第1回内国勧業博覧会で三等花紋賞、81年の第2回同会では妙技二等賞牌(はい)を受ける。この間、金刀比羅(ことひら)宮に油絵35点を奉納のほか、元老院の委嘱により明治天皇の肖像画を描いた。のち東北地方ほか各地に旅行して写生する。明治27年7月6日没。
彼は風景画、人物画、身辺に取材した静物画に迫力ある油彩リアリズムを確立した最初の画家であった。代表作に『岩倉具視(ともみ)像』『花魁(おいらん)』『鮭(さけ)』『豆腐及油揚図』『酢川にかかる常盤(ときわ)橋』ほかがある。
[小倉忠夫]
『青木茂編『高橋由一油画史料』(1984・中央公論美術出版)』
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1828.2.5~94.7.6
幕末~明治期の洋画家。江戸の佐野藩邸に生まれる。はじめ狩野洞庭・吉沢雪葊(せつあん)に学ぶ。1862年(文久2)蕃書調所画学局に入り,川上冬崖(とうがい)に洋画の指導をうけ,65年(慶応元)「画学局的言」を書く。ワーグマンにも学んだ。73年(明治6)私塾天絵楼(てんかいろう)を設立,後進の指導にあたる。「花魁(おいらん)」「鮭」(ともに重文)など一貫して対象に肉薄する迫真的写実作品を描き,後期にはフォンタネージの指導をうけ,風景画も多い。
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…しかし,1876年創設の工部美術学校が短期間で閉校となったのち,官設の東京美術学校が89年に開校されるまでの明治前半期には,一連の私画塾が画学校の役割を果たした。川上冬崖,高橋由一の2人の洋画家はその先駆をなす。ともに幕府の開成所(蕃書調所の後身)画学局に学んだが,西洋画研究機関であったこの画学局は,明治期の画学校の前身ともみることができる。…
…とくに重要な画家をあげれば,ドラクロア,ドーミエ,セザンヌ,ゴッホ,シニャック,モローなどがおり,20世紀にかけてはルオー,デュフィ,スゴンザック,クレー,ノルデ,またアメリカではホーマー,プレンダーガストMaurice Prendergast(1859‐1924),マリンJohn Marin(1870‐1953)などがあげられ,いずれも従来の伝統にとらわれない自由な様式,技法を見せている。
[近代日本の水彩]
日本では《イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ》の特派員として幕末に来日したイギリス人ワーグマンに学んだ高橋由一,五姓田(ごせだ)芳柳(1827‐92),その次男の義松などが洋風水彩画の端緒を作り,浅井忠は油彩のほか水彩にもすぐれていた。また1907年には大下藤次郎,丸山晩霞(ばんか)(1867‐1942)らの手で日本水彩画研究所が設立され,その後の水彩の普及,発展に大きく貢献した。…
…冬崖はまた,蘭書や英書の絵画入門書を翻訳・研究するとともに,苦心惨憺して油絵具をみずから手製している。高橋由一がこの画学局に入ったのは,62年のことであった。
【明治時代美術】
[欧化と国粋]
日本で最初の本格的な洋画家(油絵画家)となったのが,川上冬崖を師とした高橋由一である。…
※「高橋由一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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