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高橋由一 たかはしゆいち

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高橋由一
たかはしゆいち

[生]文政11(1828).2.5. 江戸
[没]1894.7.6. 東京
明治初期の代表的洋画家。佐野藩下級藩士の出身。幼名は猪之助,のち由一。生来病弱で画家への道を選び,狩野派を学んで藍川と号した。その後,洋製石版画に接して洋画への情熱を燃やし,文久2 (1862) 年,蕃所調所画学局に入り川上冬崖師事。さらに横浜で C.ワーグマンに実技を学び,本格的な油彩画の技法と理論を身につけ,鮭や豆腐など身近な物を,写実主義に徹した画風で描いた。 1873年日本橋に画塾天絵楼を創立して明治画壇の俊才を育成。 76年 A.フォンタネージと出会い西洋画法を学んだ。 78年浅井忠,小山正太郎らと十一字会を結成。 80年日本最初の美術雑誌『臥遊席珍』を発行。晩年は穏健な風景画,肖像画を多く制作した。主要作品『花魁 (おいらん) 』 (72頃,東京芸術大学重文) ,『鮭』 (77頃,同,重文) ,『豆腐と油揚』 (77頃,金刀比羅宮) ,『不忍池』 (94頃) 。

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デジタル大辞泉の解説

たかはし‐ゆいち【高橋由一】

[1828~1894]洋画家。江戸の生まれ。初め川上冬崖(かわかみとうがい)、のちワーグマンに師事。明治6年(1873)私塾、天絵楼(てんかいろう)を創立。油彩による写実を追求。作「花魁(おいらん)」「鮭」など。

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百科事典マイペディアの解説

高橋由一【たかはしゆいち】

明治初期の洋画家。江戸生れ。初め狩野派を学び,のち幕府の蕃書調所画学局に入って川上冬崖に師事,次いでワーグマンに油絵技法を学ぶ。明治に入って大学南校教官となり,1873年日本橋浜町に私塾天絵楼(てんかいろう)を設立,1884年まで原田直次郎高橋源吉ら多くの弟子を養成。
→関連項目神奈川県立近代美術館川端玉章

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高橋由一 たかはし-ゆいち

1828-1894 幕末-明治時代の洋画家。
文政11年2月5日生まれ。蕃書調所(ばんしょしらべしょ)画学局にはいり,のち川上冬崖に油彩画をまなび,ワーグマンの指導をうける。明治6年画塾天絵楼(てんかいろう)をひらき,原田直次郎,川端玉章らを指導し,洋画の普及につとめた。明治27年7月6日死去。67歳。江戸出身。初名は浩。字(あざな)は剛。号は藍川。作品に「花魁(おいらん)」「鮭」など。

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江戸・東京人物辞典の解説

高橋由一

1828〜1894(文政11年〜明治27年)【洋画家】「絵事ハ精神ノ為ス業ナリ」物の実存に、油彩画を通して迫った天才画家。 幕末〜明治期の洋画家。江戸の佐野藩邸に生まれる。はじめ狩野派を学ぶが、石盤洋画を志し1862年(文久2)蕃書調所画学局に入り、川上冬崖(とうがい)に指導をうけた。その後、横浜の英国人特派画家ワーグマンに師事。1872年(明治5)の「花魁」では吉原の遊女をリアルに描いた。1873年(明治6)日本橋浜町に私塾天絵楼(てんかいろう)を設立、後進の指導にあたる。片反身をそいだ塩鮭を描いた「鮭」はその代表作。一貫して写実的な描写を通した。

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世界大百科事典 第2版の解説

たかはしゆいち【高橋由一】

1828‐94(文政11‐明治27)
明治初期の洋画家。江戸の下野国佐野藩邸内に生まれる。幼名猪之助(いのすけ),壮年になって佁之助(いのすけ),維新後に由一と改める。藩主堀田正衡の近習として出仕。はじめ狩野派に学ぶが満足せず,洋画法の学習を志して1862年(文久2)蕃書調所画学局に入り,川上冬崖の指導を受ける。64年(元治1)開成所画学局出役介となるが,油絵の実技がままならないのを知って,横浜居留地のワーグマンや貿易商ショイヤー夫人を訪ねている。

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大辞林 第三版の解説

たかはしゆいち【高橋由一】

1828~1894) 明治初期の洋画家。江戸生まれ。初め日本画を学ぶが、洋画に転向、川上冬崖・ワーグマンに師事。私塾天絵てんかい楼を開き洋画の普及と後進の育成にあたる。写実的手法で静物・肖像・風景などを描く。代表作「鮭」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高橋由一
たかはしゆいち
(1828―1894)

明治初期洋画の代表作家。文政(ぶんせい)11年2月5日、下野(しもつけ)国(栃木県)佐野藩士の子として江戸に生まれる。幼名猪之助(いのすけ)、維新後は由一。号は藍川(らんせん)。幼少から狩野(かのう)派ほかを学ぶが、嘉永(かえい)年間(1848~54)に西洋石版画の迫真性に打たれ、1862年(文久2)幕府の洋書調所(ようしょしらべしょ)画学局に入り、川上冬崖(とうがい)のもとで西洋画法を学んだ。また横浜のワーグマンやショイヤー夫人にも指導を受け、67年(慶応3)上海(シャンハイ)に渡航のほか、パリ万国博覧会に出品。73年(明治6)ウィーン万国博覧会に『富嶽(ふがく)大図』を出品、同年日本橋浜町に画塾天絵楼(てんかいろう)(のち天絵社、天絵学舎)を開き、84年まで後進を指導したが、そのなかには川端玉章(かわばたぎょくしょう)、安藤仲太郎(なかたろう)、原田直次郎らがいた。77年の第1回内国勧業博覧会で三等花紋賞、81年の第2回同会では妙技二等賞牌(はい)を受ける。この間、金刀比羅(ことひら)宮に油絵35点を奉納のほか、元老院の委嘱により明治天皇の肖像画を描いた。のち東北地方ほか各地に旅行して写生する。明治27年7月6日没。
 彼は風景画、人物画、身辺に取材した静物画に迫力ある油彩リアリズムを確立した最初の画家であった。代表作に『岩倉具視(ともみ)像』『花魁(おいらん)』『鮭(さけ)』『豆腐及油揚図』『酢川にかかる常盤(ときわ)橋』ほかがある。[小倉忠夫]
『青木茂編『高橋由一油画史料』(1984・中央公論美術出版)』

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世界大百科事典内の高橋由一の言及

【画学校】より

…しかし,1876年創設の工部美術学校が短期間で閉校となったのち,官設の東京美術学校が89年に開校されるまでの明治前半期には,一連の私画塾が画学校の役割を果たした。川上冬崖,高橋由一の2人の洋画家はその先駆をなす。ともに幕府の開成所(蕃書調所の後身)画学局に学んだが,西洋画研究機関であったこの画学局は,明治期の画学校の前身ともみることができる。…

【水彩】より

…とくに重要な画家をあげれば,ドラクロア,ドーミエ,セザンヌ,ゴッホ,シニャック,モローなどがおり,20世紀にかけてはルオー,デュフィ,スゴンザック,クレー,ノルデ,またアメリカではホーマー,プレンダーガストMaurice Prendergast(1859‐1924),マリンJohn Marin(1870‐1953)などがあげられ,いずれも従来の伝統にとらわれない自由な様式,技法を見せている。
[近代日本の水彩]
 日本では《イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ》の特派員として幕末に来日したイギリス人ワーグマンに学んだ高橋由一,五姓田(ごせだ)芳柳(1827‐92),その次男の義松などが洋風水彩画の端緒を作り,浅井忠は油彩のほか水彩にもすぐれていた。また1907年には大下藤次郎,丸山晩霞(ばんか)(1867‐1942)らの手で日本水彩画研究所が設立され,その後の水彩の普及,発展に大きく貢献した。…

【明治・大正時代美術】より

…冬崖はまた,蘭書や英書の絵画入門書を翻訳・研究するとともに,苦心惨憺して油絵具をみずから手製している。高橋由一がこの画学局に入ったのは,62年のことであった。
【明治時代美術】

[欧化と国粋]
 日本で最初の本格的な洋画家(油絵画家)となったのが,川上冬崖を師とした高橋由一である。…

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