改訂新版 世界大百科事典 「スティーブンソン」の意味・わかりやすい解説
スティーブンソン
Robert Louis Stevenson
生没年:1850-94
イギリスの小説家。スコットランドのエジンバラで灯台技師の子として生まれた。幼少のときから病弱で,大学卒業後は転地療養のためヨーロッパ各地を放浪旅行し,その体験を紀行文やエッセーに書いた。フランスで年上の人妻ファニー・オズボーンを愛し,彼女を追って彼女の故国アメリカに渡り,異郷での病気と貧困の生活と闘い,ついに離婚した彼女と1880年に結婚した。その後イギリス,アメリカを転々とし,88年からヨットで太平洋の島々をめぐり,90年には南太平洋のサモア諸島に定住,島民から〈お話おじさん〉と呼ばれ,この地で44歳の短いが劇的な生涯を終えた。
彼の一生がロマンティックで多彩であったように,その作品は短い生涯にしては驚くほど多産でロマンスの香気あふれるものであった。小説の代表作は《宝島》(1883),《ジキル博士とハイド氏》(1886)であるが,その他《新アラビアン・ナイト》(1882)は今日流行のスリラー小説の先駆ともいうべきもの,《バラントレー家の世嗣》(1889)は故国スコットランドを舞台にした歴史小説である。小説のほかに詩作品,エッセー,伝記(短い吉田松陰伝もある)なども多い。子どものころから文章作法の修業に努めただけあって,彼の文体は模範的といわれる。彼の作品は日本でも愛読されているが,小説家中島敦はとくに彼を愛し,《光と風と夢》(1942)という伝記を書いている。
執筆者:小池 滋
スティーブンソン
Robert Stephenson
生没年:1803-59
イギリスの鉄道,橋梁技術者。G.スティーブンソンのひとり息子。エジンバラ大学を卒業後父の鉄道建設を助け,ストックトン~ダーリントン線の詳細測量を行った。また1829年に彼の設計した多管式ボイラーの機関車ロケット号が,リバプール~マンチェスター間の機関車コンクールに優勝した。しかし彼の能力がもっとも発揮されたのは橋梁の設計,架橋においてであった。ニューカスル近郊のタイン川にかけられた鉄道用高架橋は,初期の有名な作品である。50年に北ウェールズのメナイ海峡にかけた錬鉄製のプレートガーダー橋,ブリタニア橋は橋梁技術史において一時期を画し,この形式は以後イギリス国内ばかりでなく諸外国においても多用された。また59年にセント・ローレンス川にかけたグレート・ビクトリア橋は,長く世界最長の記録を保持していた。彼がこのように橋梁技術において活躍した背景には,当時鉄道による輸送力増強の要望の高かったことがあげられる。1847年に下院議員となり,同年土木工学研究所の創立委員となって多くの技術者を指導した。
執筆者:佐藤 馨一
スティーブンソン
George Stephenson
生没年:1781-1848
実用的な蒸気機関車を製作したイギリスの機械技術者。炭鉱火夫の子として生まれ,自分もキリングワース炭鉱のエンジン工となる。1813年に炭鉱主から蒸気機関車の製作を委託され,14年にブリュッヘル号の試運転に成功,また15年には坑内安全灯を発明した。23年に機関車製作工場を設立し,25年に同工場で製作したロコモーション号がストックトン~ダーリントン間において世界最初の旅客列車を牽引,さらに29年にはリバプール~マンチェスター間で行われた機関車コンクールへ息子R.スティーブンソンと製作したロケット号を出し,優勝した。この機関車と鉄道敷設技術によって,30年に同区間の営業が開始され,大量輸送機関としての鉄道の地位が不動のものとなった。その後ベルギーやスペインなどの国外において鉄道建設の技術指導を行い,47年にはイギリス機械学会の初代会長に就任した。
執筆者:佐藤 馨一
スティーブンソン
Adlai Ewing Stevenson
生没年:1900-65
アメリカの政治家。プリンストン大学卒業後,シカゴで弁護士を開業。第2次大戦中は海軍長官の補佐官を務める。国際連合の創設にかかわり,アメリカの国連代表団に加わる。48年イリノイ州知事に選ばれ,52年,56年と続けて民主党の大統領候補に指名されるが,共和党候補のアイゼンハワーに敗れる。マッカーシイズムの盛んな50年代前半の反主知主義的風潮の中にあって,知性的な言動でインテリの間では評判がよかったが,大衆的人気に欠けていた。ケネディ,ジョンソン政権の下で国連大使を務め,65年ロンドンで客死。
執筆者:斎藤 真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報