運天港(読み)うんてんこう

日本歴史地名大系 「運天港」の解説

運天港
うんてんこう

[現在地名]今帰仁村運天など

本部もとぶ半島北東部に位置する港で、一九七五年(昭和五〇年)重要港湾に指定された。半島北東部と名護市屋我地やがじ島の間は幅二〇〇―七〇〇メートル、延長約二キロ、水深二〇―三〇メートルの海峡をなし、また半島北東部と古宇利こうり島の間には幅約二五〇―五〇〇メートル、延長二キロ余の北西に開いたサンゴ礁切れ目があって、全体として逆S字形の水道を形成している。当港はこの水道の中央部に位置する静穏な天然の良港といえる。なお現在運天港という場合、行政的には運天地区の本港のほか上運天かみうんてん地区(かつての浮田港)、屋我地島北西部の名護市運天原うんてんばる地区、羽地はねじ内海西部の湧川わくがわ地区、同南部の名護市呉我ごが地区、屋我地島南東部の名護市屋我やが地区が包含される。

流刑地の伊豆大島を脱出した源為朝が暴風雨のなかをかいくぐって当港に漂着、為朝が琉球滞在中に大里按司の妹との間にもうけた子がのちの舜天王となったという伝説があるように(「中山世譜」巻三など)、当港は早くから沖縄島北部の要港となっており、「海東諸国紀」所載の琉球国之図にも「雲見泊 要津」とみえる。奄美大島で嘉靖一四年(一五三五)頃から琉球王府に対する謀反の動きがあることを知った尚清王は、同一六年二月一三日、自ら奄美大島遠征のため大船五〇余艘を率いて出帆、同日「運天湊」に着岸して風を待ち、同月一六日に奄美大島に向けて出港したという(「中山世鑑」巻五)。慶長一四年(一六〇九)の薩摩島津氏の琉球侵攻では、三月下旬に島津勢は当港や古宇利島に軍船を集結させて停泊、今帰仁なきじんグスクを焼き、四月一日には海陸両路から那覇・首里に向かっている(「琉球渡海日々記」「喜安日記」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「運天港」の解説

運天港

沖縄県にある港。沖縄本島北部、本部半島東側に位置する。戦前は黒糖積出港として発展。1972年5月、沖縄の本土復帰に伴い復帰。港湾管理者は、沖縄県。重要港湾(1972年5月指定)。港湾区域面積は、1,483ヘクタール。

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世界大百科事典(旧版)内の運天港の言及

【今帰仁[村]】より

…14世紀から15世紀の三山(さんざん)時代には北山(ほくざん)王統が今帰仁城(北山城)にあって沖縄島北部を支配し,当地はその中心地であった。北東部の運天(うんてん)港は北東に古宇利島,南東に屋我地(やがじ)島がある天然の良港で,源為朝が渡来したとの伝説もあり,薩摩の琉球征服時にも薩摩軍が第一歩を印した。第2次世界大戦中は海軍基地があり,現在は貿易港として1万トン級岸壁や近代設備が整っている。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」