アクティウムの海戦(読み)アクティウムノカイセン

デジタル大辞泉 「アクティウムの海戦」の意味・読み・例文・類語

アクティウム‐の‐かいせん【アクティウムの海戦】

紀元前31年、ギリシャ北西岸のアクティウム(Actium)岬の沖で、オクタビアヌスが、アントニウスエジプト女王クレオパトラ連合軍を破った海戦。アクチウムの海戦。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「アクティウムの海戦」の意味・読み・例文・類語

アクティウム‐の‐かいせん【アクティウムの海戦】

  1. アクチウムのかいせん(━海戦)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「アクティウムの海戦」の意味・わかりやすい解説

アクティウムの海戦 (アクティウムのかいせん)

オクタウィアヌスアウグストゥス)が,前31年アントニウスクレオパトラの連合軍を破った古代ローマの海戦。共和政最末期すでに海外に大領土を有していたローマでは,イタリアおよび西方諸地域を統治したオクタウィアヌスと,おもに東方諸地域を管轄したアントニウスの2人に実権が握られていった。後者はエジプト女王クレオパトラと結び,彼女とその子どもたちにエジプト,小アジア,南シリア,メディアを含む東方全域の支配をゆだねると宣言した。オクタウィアヌスはこれを知ってアントニウスを謀反人,国家の敵として告発し,両者は前31年9月2日,ギリシア北方アクティウムActium岬沖の海戦で激突した。戦闘がようやく伯仲するかに見えた折,クレオパトラの率いるエジプト艦隊60隻は突如戦場を離脱した。これを見るやアントニウスも戦っている将兵を見捨て,彼女のあとを追って逃走した。勝利はオクタウィアヌスに帰し,以後彼は絶対的勝利者として初代皇帝となった。この海戦は共和政から帝政への転換を促す重要な戦いとなった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アクティウムの海戦」の意味・わかりやすい解説

アクティウムの海戦
あくてぃうむのかいせん

古代ローマ時代の決戦の一つ。アクティウムActiumはギリシア北西部のアンブラキア湾頭の岬。カエサル没(前44)後のローマの覇権争いのなかで、アントニウスはエジプト女王クレオパトラと結びオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)と対立、紀元前32年に開戦した。アントニウス・クレオパトラの連合軍は東地中海とイタリアの中継地ギリシアのペロポネソス半島西岸に進出、一方オクタウィアヌスは陸海双方から兵を進め、アントニウス軍を包囲した。翌年の前31年9月2日、アントニウス軍の主力が置かれていたアクティウム岬沖で決戦が行われた。

 両軍の戦力は互角で、艦船の大きさではむしろアントニウス軍が勝っていた。両軍の衝突は一度だけであったが、途中でクレオパトラの艦隊が戦列を離れ、アントニウスがこれを追ってともにエジプトに退却したため、勝利はオクタウィアヌスに帰した。前30年ローマのエジプト攻撃により、2人は自殺。オクタウィアヌスはローマの支配権とともに大穀倉地エジプトを獲得、ローマの地中海支配体制を完成し、「内乱の1世紀」に終止符が打たれた。

[島 創平]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「アクティウムの海戦」の意味・わかりやすい解説

アクティウムの海戦【アクティウムのかいせん】

前31年9月2日,オクタウィアヌス(アウグストゥス)がアントニウスクレオパトラの連合軍を破ってローマ世界の覇権をにぎった海戦。アクティウムActiumは,ギリシア北西岸アンブラキア湾頭の地。
→関連項目アグリッパエジプト(地域)

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「アクティウムの海戦」の解説

アクティウムの海戦(アクティウムのかいせん)
Actium

前31年9月の古代ローマの戦い。オクタウィアヌス(のちの皇帝アウグストゥス)が,アントニウスクレオパトラの連合軍を撃破して覇権を握った海戦。アクティウムはギリシア西北岸アンブラキア湾頭の地。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「アクティウムの海戦」の解説

アクティウムの海戦
アクティウムのかいせん
Actium

前31年9月2日,オクタヴィアヌスがアントニウス・クレオパトラの連合軍を破った海戦
翌前30年アントニウス・クレオパトラは自殺し,エジプトはローマ領となって,ローマの地中海世界統一が完成した。アクティウムはギリシア半島西岸にある岬の名。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアクティウムの海戦の言及

【アウグストゥス】より

…さらに,アントニウスがオクタウィアと離婚するに及んで,両者の衝突は不可避となり,前32年宣戦が布告された。前31年9月,アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの連合軍を破り,翌年にはアレクサンドリアを包囲して両人を自殺に追い込み,エジプトをも彼の全権下の属領とした。前29年8月にはローマにおいて大凱旋式が挙行され,前28年には三頭政治時代のすべての指令の無効が宣告された。…

【プトレマイオス王国】より

…プトレマイオス14世は前47年クレオパトラとの共同統治者となったが,前44年彼女の命令で暗殺された。彼女はカエサル,次いでアントニウスの援助によってエジプト王位を継いだが,前30年アクティウムの海戦でオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に敗れて王国はここに滅亡し,エジプトはローマ帝国の一属州となった。
[社会,文化]
 この王国ではファラオ時代に起源をもつ中央集権的な官僚組織を利用して,マケドニア人,ギリシア人が土着のエジプト人の支配にあたっていた。…

【ローマ】より

…レピドゥスはポンペイウスの息子セクストゥスの征討に功があったが,やがて失脚し,オクタウィアヌスとアントニウスの両雄が残った。アントニウスはクレオパトラと結婚し帝国の東半分を私したので,オクタウィアヌスは西半分の軍勢を率い,アクティウムの海戦(前31)でアントニウス=クレオパトラ連合軍を敗走させた。翌前30年のアントニウス,クレオパトラの自殺で,内乱は終わり,オクタウィアヌスのみが残った。…

※「アクティウムの海戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android