アントニウス(読み)あんとにうす(英語表記)Marcus Antonius

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アントニウス」の意味・わかりやすい解説

アントニウス
Antonius, Marcus

[生]前82頃
[没]前30.8. エジプト
古代ローマの将軍,政治家。プレプス (平民) の旧家の出身。前 54年からガリアで G.J.カエサルの幕僚として服務。前 52年財務官 (クアエストル) ,前 50年卜占官,その翌年護民官 (トリブヌス・プレビス) に選ばれ,ローマでカエサルの代理人をつとめた。しかしカエサルとポンペイウス (大ポンペイウス) が対立すると,元老院によって追放され,カエサルのもとに逃れた。前 50年ファルサルスの戦いではカエサルに従ってポンペイウスを破り,前 48~47年にはカエサル麾下の騎兵隊長となった。前 44年執政官 (コンスル) となり,同年3月カエサルが暗殺されるとその遺言状を公表,追悼演説で民心を扇動し,暗殺者 M.ブルーツスらはローマ退去を余儀なくされた。カエサルの養子で財産相続人と定められたオクタウィアヌス (アウグスツス) と初め対立したが,前 43年和解,両者に M.レピドゥスを加えて第2次三頭政治が成立した。前 42年オクタウィアヌスとともにマケドニアフィリッピでブルーツスと G.カッシウスを破り,この戦いの殊勲者としてアントニウスの信望は高まった。東方問題処理のため東方にとどまり,前 41年キリキアのタルソスクレオパトラ7世を呼び寄せたが,彼女と恋に落ち,その年の冬中アレクサンドリアでともに暮した。前 40年イタリアに帰り,オクタウィアヌスと会見して協定を結び,アントニウスは東方属州,オクタウィアヌスは西方属州を統治することにし,この協定を固めるためアントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと結婚した。しかし前 37年末頃クレオパトラと結婚して,アレクサンドリアに住みつき,オクタウィアヌスとの対立は激化した。前 34年アルメニアを征服し,アレクサンドリアで凱旋式を行い,その機会にクレオパトラとカエサルとの子カエサリオンおよびアントニウスが彼女に産ませた子たちに法外な栄誉と領土を与えた。前 32年ついにオクタウィアと離婚。オクタウィアヌスとの対立は決定的となり,前 31年アクチウムの海戦で,戦いなかばで戦場を逃れたクレオパトラのあとを追い,アレクサンドリアに落ちのび,翌前 30年オクタウィアヌスがアレクサンドリアに迫ると,クレオパトラがすでに死んだとの誤報を真に受け自殺,そのあとクレオパトラも彼のあとを追った。アントニウスは人間的魅力,武人としての手腕をそなえ,政治家としても明敏であったが,オクタウィアヌスの先見の明と冷静な計画性を欠いていた。

アントニウス[パドバ]
Antonius of Padua

[生]1195. リスボン
[没]1231.6.13. パドバ
聖人。教会博士。ビンセンシオ修道院に入り (1210) ,司祭となったが,1220年フランシスコ会に移り,すぐれた説教師としてイタリア各地で活躍した。ボローニャ大学神学講師,ロマニアの管区長をつとめ (27~30) ,のちにパドバに行き教育と説教に従事した。貧者の保護聖人。祝日6月 13日。

アントニウス
Antonius, Lucius

前1世紀頃のローマの政治家。 M.アントニウスの2番目の弟。ムチナの戦いでは兄マルクスの下で戦い,前 41年執政官 (コンスル ) 。前 40年ペルーシアの戦いでオクタウィアヌス (アウグスツス) に敗れたが,許され,ヒスパニアに左遷,その地でまもなく死んだ。

アントニウス[エジプト]
Antonius of Egypt

[生]250頃.エジプト,コマ
[没]355.1.17.
聖人。 20歳の頃家族と別れて隠棲生活を始め,約 20年間ナイル川流域の山中に住む。 305年頃隠修士院の制度を設けて観想的共同生活に入る。この制度はアタナシウスパコミウスに影響を与えた。その後 45年間砂漠に隠退。祝日1月 17日。

アントニウス
Antonius, Gaius

[生]?
[没]42
古代ローマの政治家 M.アントニウスの弟。前 44年マケドニアに派遣されたが,アポロニアで M.ブルーツスに包囲され,捕えられて処刑された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アントニウス」の意味・わかりやすい解説

アントニウス(古代ローマ軍人)
あんとにうす
Marcus Antonius
(前82ころ―前30)

古代ローマ、共和政末期の軍人、政治家。パレスチナとエジプトでガビニウス麾下(きか)の騎兵隊長として頭角を現す。紀元前53年から前50年までカエサルの部下としてガリアに従軍。前51年クワエストル(財務官)、前49年護民官を務めた。カエサルとポンペイウスとの内乱(前49~前45)ではカエサル側につき、彼の勝利に貢献。前44年カエサルとともにコンスルとなった。同年3月15日カエサルの暗殺に遭遇。その後ローマ政界の第一人者として事態の収拾に対処したが、味方を元老院議員に任命したり、ガリア・キサルピナの支配権を手に入れるなど専横が目だち、カエサルの養子オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)を中心とするカエサル派の人々と相いれなくなった。だが前43年には和解が成立し、オクタウィアヌス、レピドゥスとともに第二次三頭政治の一翼を担った。翌年トラキアのフィリッピで、カエサル暗殺者ブルートゥス、カッシウスを破った。

 広大なローマ領のうち、とくに東方属州の統治にあたり、前41年トラキアのタルススでエジプト女王クレオパトラ7世と出会い、この冬をエジプトで彼女とともに過ごした。その後一時イタリアへ戻り、ガリアをオクタウィアヌスに譲ったのち、彼の姉オクタウィアと結婚。前39年にはともに東方へ行き、統治にあたった。しかしその後アントニウスはクレオパトラとの連合を強め、前35年には再度東方へ渡ったオクタウィアを迎え入れなかった。さらに、前36年レピドゥスが三頭政治から脱けたことによって、オクタウィアヌスとの対立がしだいに鮮明になっていった。前34年アルメニア併合後、エジプトのアレクサンドリアで、はでな凱旋(がいせん)式を挙行し、クレオパトラとその子供たちとをローマ領である東方属州の君主と宣言したことは、ローマに対する敵対行為にも等しかった。前32年アントニウスによるオクタウィアの離別もあっていよいよ両者の対立は決定的となり、前31年9月ギリシア北方のアクティウム沖で両者の決戦が行われ、オクタウィアヌスの勝利に終わった。アントニウスは翌年8月1日アレクサンドリアで自殺を遂げた。

 彼は、勇気と寛大さとを兼ね備えた優秀な軍人だったが、政治家としては短気、頑固な性格が災いしたといわれる。だが、彼の統治はおおむねオクタウィアヌスに受け継がれていった。当時の政治家に不可欠であった雄弁術においても巧みで、よく聴衆を魅了した。

[田村 孝]

『秀村欣二訳『アントニウス』(村川堅太郎編『世界古典文学全集23 プルタルコス』所収・1966・筑摩書房)』『河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)』


アントニウス(カトリック聖人)
あんとにうす
Antonius
(1195―1231)

フランシスコ修道会士、カトリックの聖人。ポルトガルのリスボンに生まれたが、イタリアのパドバで死亡、いまもそこに遺体があるため、「パドバのアントニウス」とよばれている。「奇跡の聖人」と称されるほど、多くの奇跡を行ったと伝えられている。初めアフリカに渡って宣教に従事し、殉教者となることを望んだが、健康上の理由からヨーロッパに戻り、イタリアで隠遁(いんとん)の生活を送ったのち、晩年には優れた説教を行って、民衆から名声を博した。魚や鳥に説教している有名な絵があるように、その説教には非凡な魅力と非常な迫力があったものと考えられている。

[大谷啓治 2017年11月17日]

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