ドイツの人文主義者,宗教改革者。メランヒトンとは〈黒い土〉を意味する本名Schwartzerd(t)をギリシア語化したもの。ファルツのブレッテンに武器鍛冶工の子として生まれ,早く父を失い,母方の祖母に育てられたが,人文主義者として高名な大伯父ロイヒリンさらにエラスムスの影響下に養育される。12歳でハイデルベルク大学に入り,17歳でチュービンゲン大学で教養学修士となり,教育や編集にたずさわる。ザクセン選帝侯の求めでロイヒリンの推薦を受けて,1518年ウィッテンベルク大学のギリシア語教授となる。その就任講演〈青年教育の改善〉はこの大学ばかりか他の大学の教育改革にとっても指標となった。その地で直ちに宗教改革者ルターの信仰と神学の影響下に入り,生涯その協力者となる。19年7月のライプチヒ討論のさいはルターを助け,夏からはローマ書の講義を始め,それに基づいて21年《神学総覧》初版を出版する。これは宗教改革の信仰と神学を体系的にまとめた最初のものである。30年アウクスブルク国会に提出された〈アウクスブルク信仰告白〉を起草し,またその〈弁証〉を執筆したほか,以後10年余カトリックとの宗教会談にも臨む。《神学総覧》を生涯になんども書き直したが,59年の最終版は以後のルター派教会に大きな影響を与えた。その人文主義的背景と平和的妥協的性格は,当時の教派対立的状況においてしばしば批判を受けたが,とくに上記〈アウクスブルク信仰告白〉など,キリスト教会一致のために近年改めて見直され,注目されている。
執筆者:徳善 義和
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツの宗教改革者、人文主義者。人文主義者ロイヒリンの親族で、エラスムスの精神により教育され、早くから天才児として知られた。1518年チュービンゲン大学からウィッテンベルク大学にギリシア語の教授として招かれ、ルターの影響を受け、哲学から聖書学に転じ、ルターの同僚として宗教改革運動の指導者となる。1521年に『神学総論(ロキ・コンムーネス)』第1版を出し、宗教改革の教義を初めて明瞭(めいりょう)に組織した。その教育上の才能によりプロテスタント神学と哲学の教師となる。1530年にはプロテスタント最初の信仰告白である「アウクスブルク信仰告白」を執筆した。彼の性格は温和で、指導力に欠けるところもあったが、ルターの生存時には両者の相違は顕在化しなかった。だが、晩年はルター神学との違いが目だち、論争の種を残した。しかし彼の人文主義的精神は、ルター派教会とカルバン主義とを結び付ける重要な方向を導き出したのである。
[金子晴勇 2018年1月19日]
『藤田孫太郎訳『神学総論』(1949・新教出版社)』▽『R・シュトゥッペリッヒ著、倉塚平訳『メランヒトン』(1971・聖文舎)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1497~1560
ドイツの神学者。初め人文主義者としてヴィッテンベルク大学に古典語を講じたが,ルターの宗教改革にあたりその最大の協力者となり,特に学校教育改革に力を尽くした。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…10ヵ月のワルトブルク滞在中に成った新約聖書のドイツ語訳(《ルター訳聖書》)がはたした役割は大きい。このときメランヒトンは《神学要義》をもってルターの思想を体系づけており,このような協力者を多く得て改革が進行した。具体的には教会におけるミサの濫用と修道士の独身制に向けられ,それはルター不在中にもカールシュタットの指導の下にウィッテンベルクで始まっていた。…
…そして19年6~7月,教皇側の最も有力な正統神学者エックとの間に,ライプチヒで行われた討論会(ライプチヒ討論)において,ルターがついに教皇の至上権を明確に否認し,公会議も誤りを犯す可能性があり,フスの学説にも福音的なものがあると公言するにおよんで,ローマ教会との決裂は事実上とり返しのつかぬものとなった。
[ルターの改革構想]
〈神の言〉たる聖書を唯一の権威とし,信仰者の良心をかけたルターの勇敢な教皇権批判は,フッテンをはじめドイツの人文主義者たちの強い支持を得,エラスムスを尊敬する神学者メランヒトンのごときは,1518年いらいウィッテンベルク大学におけるルターの同僚教授として,その改革運動の協力者となった。彼の福音主義は,さらに広く市民層から農民層にまで及ぶ国民的な世論を獲得するにいたるが,そこには当時急速に発展しつつあった印刷術の力が大きく働いており,ルター自身この手段を存分に活用して,多くの著述や論争文,説教を公にした。…
… 27年には,選帝侯ヨーハンに働きかけ,その命で領内教会巡察に取りかかり,プロテスタント教会の組織化をはじめるが,これはまた以後ドイツの領邦教会体制の始まりともなった。教会巡察はメランヒトンなどによる各地の教会規則制定に至るが,ルターは29年に大小二つの教理問答書(《ルター大小教理問答》)を著して,民衆の信仰教育を心がけた。その年プロテスタントの政治的結集を求める諸侯の願いでもたれたチューリヒのツウィングリとの神学会談は,聖餐論において一致に至らなかったが,30年アウクスブルク国会には,いくつかのルターの信仰告白を基とした,メランヒトン起草の〈アウクスブルク信仰告白〉が提出され,これによってルター派教会がしだいに西欧各地に形成されていく。…
※「メランヒトン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加