アジキウェ(読み)あじきうぇ(英語表記)Nnamdi Azikiwe

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アジキウェ」の意味・わかりやすい解説

アジキウェ
あじきうぇ
Nnamdi Azikiwe
(1904―1996)

ナイジェリアの独立運動指導者、初代大統領。北部州のズンゲルに生まれる。イボ系。オニッチャラゴス、カラバールのミッション・スクールに学び、ハウサ語、イボ語、ヨルバ語に熟達する。1921年から1924年まで、ラゴスの財務省に書記として勤務。1925年、留学のためにアメリカに渡航し、1931年リンカーン大学で政治学学士を得たのち、同大学で政治学を教えた。1934年、ガーナアクラ(現首都)の日刊紙『アフリカン・モーニング・ポスト』の編集を経て、1937年帰国後、ラゴスで『ウェスト・アフリカン・パイロット』紙を創刊、過激なナショナリスト紙に育成し、ナイジェリア各地で刊行した。

 1937年にナイジェリア青年運動(NYM)に参加し、1944年には、アジキウェの発意によるナイジェリア・カメルーン国民会議(NCNC、のちのナイジェリア市民会議)が結成され、ナイジェリアの異質的な大衆を一つの堅いブロックに組織した。1946年にNCNC議長となり、ナイジェリア立法評議会議員、東部州首相(1954~1959)を務め、独立運動を推進した。1960年10月ナイジェリア独立にあたり総督に就任し、1963年10月共和制移行の際に大統領となった。1966年1月のクーデターによって失脚し、1967年のビアフラ戦争(ナイジェリア戦争)では、一時期ビアフラ側を支持したが、1969年8月にはビアフラに反対し、統一ナイジェリアの支持に転換。

 1978年民政復帰とともにナイジェリア人民党(NPP)を組織し、翌1979年の大統領選挙にも出馬したが、ナイジェリア国民党NPN)のシャガリ、ナイジェリア統一党(UPN)のアウォロウォに敗れ、第3位にとどまる。1986年に政界を引退し、1996年5月11日に東部ナイジェリアで死亡。イボ人と東部州を基盤としながら、ナイジェリアの独立運動を進めたナショナリストのリーダー的存在であった。

[中村弘光]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アジキウェ」の意味・わかりやすい解説

アジキウェ
Azikiwe, Nnamdi

[生]1904.11.16. 北部ナイジェリア保護領,ズンゲル
[没]1996.5.11. ナイジェリア,エヌグ
ナイジェリアの政治家。独立後の初代大統領(在任 1963~66)。高校まではオニチャ,カラバル,ラゴスの学校で学び,1925~34年にアメリカ合衆国に留学。1934年にゴールドコーストに渡り新聞を創刊,この時期に,のちにガーナ初代大統領となるクワメ・エンクルマの師となった。1937年に帰国してから政治にかかわるようになり,初めナイジェリア青年運動で活動,1944年ナイジェリア・カメルーン国民会議 NCNCを創設した。1948年,NCNCの支持を得て立法議会議員に選出,1954~59年東部州首相を務め,1959年に行なわれた独立直前の重要な連邦選挙で NCNCを率いた。有力政党の北部人民会議とともに暫定政府を樹立したが,首相の座は人民会議を率いるアブバカル・タファワ・バレワが握った。アジキウェは上院議長,総督を経て大統領となったが,いずれも名誉職であった。1967~70年のビアフラ戦争では,当初は同胞イボ族を支援したが,この戦争に望みがないことを悟り連邦政府支持に転じた。1979年,新たに結成されたナイジェリア人民党から大統領選挙に立候補し落選,政界を引退した。政敵のオバフェミ・アウォロウォとはしばしば反目した。政治以外にも幅広い関心をもち,1961~66年にナイジェリア大学ンスカ校の総長を務めたほか,サッカー,ボクシング,卓球などの競技団体の会長も務めた。

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