改訂新版 世界大百科事典 「アダット」の意味・わかりやすい解説
アダット
adat
〈慣習〉〈慣行〉または〈伝統的秩序〉〈慣習法〉を意味するアラビア語のアーダを起源とするマレー語で,タイ南部,マレーシア,インドネシア,フィリピン南部に広く使われる。その内容は地域的にひじょうに異なるが,広義には〈現在に生きる過去の範例,規範〉と言える。文書化されている場合もあるが,多くは口承である。アダットは親族集団,地縁社会における共同態主義を支えてきた制度として不変の伝統として受け取られやすいが,実際には意識的,無意識的に変化していく柔軟性とあいまいさとを有している。慣習法としてどこにでも存在しうるアダットが社会制度として問題となるのは,一つにはイスラムに対比してであり,二つには植民地政府や近代独立国家が施行する近代法制度との関連においてである。イスラムはアフリカ,インドを含めて宗教法(シャリーア)を補完するものとしてその土地特有の慣習の適用を認めているが,東南アジアのアダットは,単に宗教法に規定のない分野に残余的に生きのびたものではなく,日常生活のエチケットから国のあり方までにわたる世界観の体系でもあるがゆえに,典型的にはミナンカバウ族の例に見られるようなイスラムとの葛藤(かつとう)を生じる。植民地政府は,一方では宗主国の西欧法を持ち込むと同時に,オランダの〈土民自治体条令〉制定に端的にうかがえるように,地域ごとに異なる慣習法としてのアダットを保護・温存し,分割統治の一助とした。複数の法律体系を併存させていくという植民地時代の遺産は,独立国家における統一的な法律制度の施行を困難にした。また,アダットを民族性の基盤として高揚すべきか,因習として排除すべきかという論議も,イスラムおよび近代化とかかわりながら政治問題として現れてくる。しかしイデオロギーとしてのアダット問題は,民族誌的な現実態の記述や法律体系の枠組の中でのアダットの法的位置という問題と区別されねばならない。
執筆者:前田 成文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報