イエメン共和国(読み)イエメン(その他表記)Republic of Yemen 英語

デジタル大辞泉 「イエメン共和国」の意味・読み・例文・類語

イエメン(Yemen)

アラビア半島南部の国。正称、イエメン共和国。首都サヌア。宗教はイスラム教。コーヒー・綿花・皮革品などを産出。1918年にオスマン帝国から王国として独立し、1962年に共和制になったイエメンアラブ共和国(北イエメン)と、1967年に英国から独立したイエメン民主人民共和国南イエメン)が、1990年5月に統合。人口3041万(2021)。アラビア語でアルヤマン。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イエメン共和国」の意味・わかりやすい解説

イエメン共和国
いえめんきょうわこく
Republic of Yemen 英語
Al-Jumhūrīyah al-Yamanīyah アラビア語

アラビア半島の南西に位置する共和国。北はサウジアラビア、東はオマーンと国境を接し、南はアラビア海とアデン湾、西は紅海に臨む。南北イエメンに分かれていたが、1990年5月22日に統一を果たし、イエメン共和国となった。2015年以降内戦が続いている。総面積は52万7968平方キロメートル。人口2783万(2017推計)。首都はサヌア。公用語はアラビア語。住民の大部分はアラブ人イスラム教徒で、スンニー派は平野部に、シーア派系のザイド派イスマーイール派は高原地帯に多く居住する。

[吉田雄介 2022年1月21日]

自然

首都サヌアが位置する北西部は山がちで、標高1000~3000メートルの高原地帯(最高峰3760メートル)を形成し、アラビア半島でもっとも気候に恵まれた地方といわれ、人口密度も高い。夏は涼しく、年降水量は400~1000ミリメートルに達し、森林が多く農業に適する。恵まれた高原地帯とは対照的に、紅海に面する沿岸平野は夏には40~45℃の高温と高い湿度で耐えがたい気候となる。東部の砂漠地帯へ向かう傾斜地には多くのワジ(涸(か)れ谷)が渓谷をつくり、オアシスを展開している。

 東部は、アラビア海に面して細長く延びる沿岸平野と、アラビア大地の南端をなす内陸高地よりなる。この高地は、西部のカウル山地で平均2000メートル、東へ向かって低くなり、最東端で300メートル以下になる。東の内陸部にはハドラマウトの大きな谷平野が広がり、これに沿って耕地や集落がみられ、農業が営まれている。気候は高温で乾燥しており、夏は南西季節風の影響で湿度が高く、気温も35~42℃に達する。冬に雨が降るが、年間わずか20~30ミリメートル程度。

 2008年、ソコトラ諸島ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の自然遺産(世界自然遺産)に登録された。

[吉田雄介 2022年1月21日]

歴史

古代イエメンはギリシア・ローマ人から「幸福のアラビア」とよばれた。

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)には、シバームの旧城壁都市(1982年登録)、サヌア旧市街(1986年)、古都ザビード(1993年)が登録されている。

 紀元前10世紀には、灌漑(かんがい)施設の充実により農業の大発展と香料貿易で巨大な富を蓄積したシバ王朝が繁栄し、その後もヒムヤル王朝が栄えた。7世紀にはイスラム教のスンニー派がティハーマ平野に、シーア派系のザイド派が高原地帯にそれぞれ勢力を確立した。9世紀に入ると、ザイド派のイマーム、ヤフヤ・アリ・ハーディAl-Hadi ila'l-Hagg Yahya(859―911)が近年まで続いたラシド王朝を創設した。16世紀にはオスマン帝国が侵入したが、イエメン人は各地で抵抗を続けた。第一次世界大戦でのオスマン帝国の敗北により、1918年イエメンは王国として独立した。1962年にクーデターにより、共和国政権が樹立され、イエメン・アラブ共和国(北イエメン)が成立したが、1963年から1970年まで王制派との内戦状態が続き、国内は荒廃した。

 一方、紅海とインド洋を結ぶ交通の要衝に位置する自然の良港アデンは、古代から物資集散地として栄えた。その重要性から、1839年にイギリス東インド会社がインド貿易の中継地としてアデン港を占領、その後、1869年のスエズ運河の開通やペルシア湾岸の原油の発見で、アデン港の経済的・軍事的重要性は高まり、1937年にはイギリス直轄植民地となった。第二次世界大戦後、イギリスはアデン植民地と保護領を併合して南アラビア連邦を結成させた。しかし、南イエメン解放戦線(FROSY)や人民解放戦線(NLF)など民族主義勢力が反英闘争を展開した。その結果、1967年11月に南イエメン人民共和国としてイギリスより独立を果たした。

 北イエメンでは、1970年12月にイリアーニAbdul Rahman al-Eryani(1910―1998)政権が新憲法を公布して初めて総選挙を実施し、諮問会議(国会)を創設した。しかしながら、1974年にハムディIbrahim al-Hamdi(1943―1977)大佐が無血クーデターで政権奪取に成功すると、軍事評議会を設置して暫定憲法を制定し、1970年憲法と諮問会議の機能を停止させた。1977年にハムディが暗殺されると、一時王制派に近いガシュミAhmad al-Ghashmi(1938―1978)政権が誕生したが、翌年、ガシュミもまた暗殺され、その後任にサレハ中佐Ali Abdullah Saleh(1942―2017)が選ばれ、軍事政権に戻った。

 南イエメンは、独立後、他の勢力を抑えてNLFの書記長シャービQahtan Muhammed al-Shaabi(1920―1981)が大統領に就任し、社会主義体制を採用した。1969年になるとシャービは、急進的なNLF左派と衝突し、辞任に追い込まれた。1970年11月には新憲法の公布や暫定最高人民会議を創設して、国名をイエメン民主人民共和国に改めた。この後も、1970年、1978年、1980年、1986年と内部抗争から指導者の交代が生じた。なお、1978年に諸政党を統合して、イエメン社会党(YSP)が唯一の政党となった。

[吉田雄介 2022年1月21日]

政治

1988年、タイズにおいて二度にわたる南北両イエメン指導者の会談の後、1989年11月に北イエメンの大統領サレハがアデンを訪問し、南イエメンのイエメン社会党(YSP)の書記長ベイドAli Salem al-Beidh(1939― )と1年以内に両イエメンを統一するという合意に至った。1990年に入ってイスラム原理主義者から統一反対の声が高まったが、5月22日に南北統一イエメンが樹立され、サレハが大統領に、ベイドが副大統領に就任した。総選挙は1993年4月27日に行われ、投票率は95%に達した。結果は総議席301議席のうち、旧北イエメン系の国民全体会議(GPC)が121議席、旧南イエメン系のイエメン社会党(YSP)が56議席、部族代表やイスラム原理主義者を含むイエメン改革連合(YIP)が62議席を獲得した。内閣は、GPC、YSP、YIPの三党連立で組閣された。しかし、連立は長続きせず、政策の不一致から1994年4月には内戦に突入した。これは実質的に旧北イエメンと旧南イエメンの戦いであり、スカッド・ミサイルや航空機による爆撃を含む激しいものとなったが、7月7日に北側がアデンを掌握して勝利を宣言した。また、10月には改正憲法が公布され、新内閣が誕生した。さらに、1999年9月には大統領選挙(イエメン初の国民直接投票)が行われ、サレハが当選した。2001年には議会・大統領の任期延長に関する憲法改正国民投票、第1回の地方議員選挙が行われた。しかし、都市部では政治家の暗殺やデモ隊と警察の衝突、地方においては部族間抗争や外国人の誘拐が頻発した。2004年にはイスラム教シーア派の分派の一つであるザイド派の指導者フーシHussein Badreddin al-Houthi(1959―2004)が暗殺され、これ以降、フーシ派はイエメン政府に対し武力闘争を開始した。2006年の大統領選ではサレハが再び勝利したが、内政は安定しなかった。2011年になってサレハが大統領を退任すると、副大統領のハディAbdrabbuh Mansur Hadi(1945― )が暫定政権を率い、2012年の大統領選挙で大統領に選ばれた。しかし、フーシ派との対立が激化し、2015年1月にフーシ派がクーデターで首都サヌアを支配下に置くと、ハディはサヌアからイエメン第二の都市である南部の港湾都市アデンに逃れ、その後さらにサウジアラビアに脱出した。これ以降、内戦状態となり、ハディ暫定政権を支える名目で、サウジアラビアを主体とするアラブ連合軍がイエメンに軍事介入を行った。長引く内戦の結果、医療・衛生インフラが壊滅し、国連より「最悪の人道危機」と称される状態にあり、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は2070万人が人道支援を必要としていると警告している(2021年3月時点)。

[吉田雄介 2022年1月21日]

経済

1人当りの国民総所得は940ドル(2019)で、世界的にみてもっとも低い、いわゆる最貧国に属する。第三次産業の就労者数が増えたものの、農業がイエメンの重要な産業であり、就労人口の28.3%(2018)が従事するものの、女性43.3%、男性27.2%で、農業従事者の男女差が著しい(ILO資料)。耕作地は少なく、国土の3%にすぎないうえに、雨水に頼る乾燥農法が大部分である。北西部の主要作物は、トウモロコシ類、小麦、大麦などであり、これらは何世紀にもわたって開墾された山腹の段々畑で耕作されている。ただし、天候に左右されるために、収量は不安定である。平野部ではナツメヤシ、タバコ、そして主要輸出品の一つである綿花などが栽培されている。積出し港モカ(ムハー)の名で知られたコーヒーは、近年では生産量を減らしている。

 南部では、ハドラマウトの渓谷地帯、アブヤン地方のデルタ、ラヘジ、ベイハンが農業の中心である。またアラビア海での漁業も重要であり、アル・ムカッラがその中心である。

 基幹産業は石油産業で、1954年にアデンに完成したブリティッシュ・ペトロリアムの精油所を1977年に国有化した。1998年にはマリブで精油所が稼働した。原油は西部のマリブや中央部のマシラ盆地などで生産されており、かつては石油産業が輸出の90%、財政収入の60%強を占めたものの、生産量は日量約44万バレル(2001)がピークで、以後は国内情勢の悪化により年を追って減少し、2016年には日量1.8万バレル程度にまで激減した。天然ガスの開発も行われ、2009年になって輸出が開始されたものの、内戦の激化に伴い外国企業が出国したため、2019年現在はほぼ天然ガスの生産は停止状態にある。

 小規模工業として、セメント・ブロック、タイル、煉瓦(れんが)、製塩、飲料、綿繰り、製粉、農産物加工、食料品、アルミ・プラスチック製品、塗料、電池の生産などがある。1975年には中国の援助で繊維、製塩、タバコ工場が建設されたが、これは中国製の予備部品に頼らなければならないために維持がきわめてむずかしい。

 旧北イエメン政府は、食料品、繊維、セメントなどの建材の自給自足を目標にしていたために、サヌア、タイズ、ホデイダには紡織、タバコ、飲料、アルミニウム製品、プラスチックなどの軽工業が存在する。バジルなどにセメント工場、サリーフには岩塩工場がある。

 2007年の国内総生産(GDP)は225億ドルで、総貿易額は輸出61億1000万ドル、輸入は85億1000万ドルである。おもな輸出品目には石油、コーヒー、魚貝類、野菜、果物、タバコがある。また、おもな輸入品目には食料品、機械類、化学製品などがある。主要輸出相手国は中国、インド、タイで、輸入相手国はアラブ首長国連邦、中国、サウジアラビアである。

 日本との貿易(2019)では、日本への輸出額314億1700万円、輸入額4億6100万円で日本の輸入超過である。おもな輸出品目は石油、コーヒー、魚貝類で、おもな輸入品目は機械類、自動車である。

 2018年のGDPは235億ドルで、世界銀行の統計(WITS)によれば、総貿易額は輸出1546万ドル、輸入33億ドルで、圧倒的な輸入超過である。輸入額全体の86%が野菜であり、それに次ぐのが食用の動物(8%)で、主要輸出相手国はエジプトとパキスタンである。

 統一以前から、南北イエメンともに、他国から多額の経済・軍事援助を受けてきた。その額は、北イエメンでは政府予算の43%(1971~1983年の平均)に達していた。しかし、統一イエメンが湾岸危機の際にイラク寄りの姿勢をとったために湾岸産油国との関係が悪化し、援助は中止された。また、重要な外貨獲得源であった湾岸諸国への出稼ぎ労働者も追放された。こうした状況から、2006年に第三次五か年計画および第三次貧困削減計画を策定。同年11月に開かれた対イエメン支援国会合において、欧米諸国や湾岸協力会議(GCC)諸国を中心に、総額53億ドルの支援拠出誓約がなされた。

 教育制度は、六・三・三制で義務教育は小・中学校の9年間。貧困等の影響から就学しない子供も多い。識字率は男性77.0%、女性40.5%である(2007)。

[吉田雄介 2022年1月21日]

『佐藤寛著『イエメン――もうひとつのアラビア』(1994・アジア経済研究所)』『佐藤寛著『イエメン内戦――その背景と今度の展望』(1995・アジア経済研究所)』『佐藤寛著『イエメンものづくし』(2001・日本貿易振興会アジア経済研究所)』『間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』(2006・アジア経済研究所)』


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知恵蔵 「イエメン共和国」の解説

イエメン共和国

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