改訂新版 世界大百科事典 「アトス」の意味・わかりやすい解説
アトス
Áthos
Athōs
ギリシア北部,テッサロニキ市の南東に広がるハルキディキ地方から突き出た三つの半島のうち,最も北東寄りに位置するアクティAktí半島全体をさす名称。これは地形の変化に富む,全長約40kmの細長い半島で,先端に岩峰アトス山(標高2033m)がそびえる。アトスの名はすでに古代世界に広く知られており,ホメロスの《イーリアス》や,ヘロドトスの《歴史》にも記述がみえる。しかし,今日一般にアトスもしくはアトス山と呼ぶ場合,それらは単に地名としてよりも,ギリシア正教を奉ずる自治国家としての半島全体を指すことが多い。また,この地は,中世以来広く正教世界全体にとっての聖地と見なされてきたところから,〈聖なる山(アギオン・オロスÁgion Óros)〉とも呼ばれる。アトスと修道思想の結びつきが始まる時期は明らかでなく,数々の奇跡に彩られた草創伝説はともかく,今日ではビザンティン皇帝の援助のもとに,アトス最初の本格的な共住制の修道院メギスティス・ラウラMégistis Lávraが創設された963年が最も確かな建国の年とされる。971年もしくはその翌年にアトスの憲章に相当する〈第一の戒律(プロト・ティピコンPrōto Typikon)〉が公布され,そこには早くも帝国による自治権の保障をはじめ,領界の確定,修道院の組織運営と諸規律など,今日みられる諸制度の枠組みが示されている。ビザンティン帝国崩壊後も,バルカン諸国やロシアなど正教圏の援助のもとに存続した。現在のアトスは,国際外交上の機能を宗主国ギリシアにゆだねながらも自治権を保有し,首都に当たるカリエスKarýesでは,20ある修道院から選ばれた代表者たちが政庁にあって,交代で政務に携わっている。その傘下に,修道院のほか,スキティskíti,ケリkélliと呼ばれる小庵,別院があり,修道士たちは中世以来のユリウス暦を用い,女人禁制などの規律のもとに修行の生活を送っている。アトスは,その成立,歴史ゆえに,豊かな文化遺産を誇り,ビザンティン文化の宝庫として知られる。それ自身史跡としての意義をもつ建築をはじめ,聖堂を飾るモザイク壁画,イコン,聖具,ミニアチュールで飾られた写本などは,いずれもビザンティン美術の貴重な遺例で,また修道院に伝わる文書はビザンティン史研究の重要史料とされる。メギスティス・ラウラをはじめ,イビロン,ディオニシウ,パントクラトロス,スタウロニキタ,キランダリウ,バトペディウなどの修道院,プロタトン聖堂(カリエス)などに膨大な文書や美術品が残されている。
執筆者:高橋 榮一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報