小説家、歌人。明治5年3月25日(新暦5月2日)東京・内幸町の東京府庁構内の官舎で生まれる。本名なつ。夏子とも書いている。父則義(のりよし)、母たきはともに甲斐国(かいのくに)(山梨県)出身の農民であったが、幕末に江戸へ出、士分となって同心となったものの、明治維新に際会、則義は東京府庁に勤める役人となっていた。同時に金融、不動産業にも従事、一葉の幼年時代には経済的にも余裕があった。一葉は学歴としては青海学校(せいかいがっこう)小学高等科4級(現在では小学校5年にあたる)修了にとどまっているが、これは、女に学校教育は不要という母の意見による。
[岡 保生]
その後、彼女は旧派の歌人和田重雄に和歌の指導を受け、さらに進んで1886年(明治19)中島歌子の萩の舎(はぎのや)に入門した。歌子も旧派の歌人で、その指導も旧派の伝統を受け継いでいた。したがって一葉の作歌もほとんど題詠による古今調の作品といってよいが、彼女は1890年一時萩の舎の内弟子となったこともあり、その和歌での学習はのちの小説創作にも影響がみられる。歌作数も4000首を超える。田辺龍子(たつこ)(三宅花圃(みやけかほ))は同門。1887年に長兄泉太郎、1889年には父則義が死亡し、一時母子は次兄虎之助(とらのすけ)のところに身を寄せたりしたが、結局1890年から、たき、一葉、くに(妹)の女3人で世帯をもつこととなり、本郷(現文京区)菊坂に移った。
[岡 保生]
1891年4月、東京朝日新聞の小説記者半井桃水(なからいとうすい)に入門、小説家として立とうと志した。翌1892年『武蔵野(むさしの)』に発表した『闇桜(やみざくら)』は、桃水の指導を受けた文壇的処女作である。その後、桃水との仲が萩の舎で話題となり、中島歌子から叱責(しっせき)されて絶交せざるをえなかった。しかし、一葉には桃水の親切さが忘れられず、またその後もときどき生活の援助を受けたりしていて、彼女は終生桃水に慕情を寄せていた。
[岡 保生]
1893年から『文学界』同人たち、ことに平田禿木(ひらたとくぼく)、馬場孤蝶(ばばこちょう)、戸川秋骨(とがわしゅうこつ)、上田敏(うえだびん)らとの親交が開けた。彼ら同人はいずれも西欧文学に明るく、ロマン的で若々しい情熱をもち、一葉に新文学の刺激を与えた。一方、1893年7月から翌年4月まで下谷(したや)龍泉寺町(りゅうせんじまち)(現台東(たいとう)区竜泉)で荒物・駄菓子屋を開業、日々の商業に生活を賭(か)ける苦しさを体験し、町の子供たちの動きなどもつぶさに眺め、わがものとした。ここでの体験が、のち、名作『たけくらべ』を生んだ。
[岡 保生]
1894年5月、本郷丸山福山町(現文京区西片(にしかた))に転居。同年12月『大つごもり』を『文学界』に、翌1895年1月から『たけくらべ』を同誌に連載し始めて、小説家一葉の開花時代を迎えた。この時分から没年の1896年1月までは「奇蹟(きせき)の一年」などといわれる。この間に『たけくらべ』を完成し(1896.1)、去るものは日に疎いといわれる人情の不如意を描いた『ゆく雲』(1895.5)、淪落(りんらく)の女の激しい生きざまが読者の胸を打つ『にごりえ』(1895.9)や、当時の家庭における男尊女卑の慣習に抗議する『十三夜』(1895.12)、女が一人生き抜くために閉ざされた人生の打開を求めようとする『わかれ道』(1896.1)などを発表しているからで、これらはいずれも、この時代に生きる女性の悲しみを切実に訴え、いまなお読者の胸を打つ名作である。しかし、1896年に入ってから彼女の健康は急速に衰え、『うらむらさき』(1896.2、未完)、『われから』(1896.5)などの作があるが、粟粒結核(ぞくりゅうけっかく)のため11月23日に没した。築地本願寺の樋口家の墓に葬られる(現在は杉並区和泉(いずみ)の本願寺)。一葉の生前に公刊されたのは、博文館「日用百科全書」中の一編『通俗書簡文』(1896.5)だけであり、小説を執筆したのはわずか5年間、作品数も約20編でしかないが、晩年の数編は、今日からすれば古風な文体ながら、それゆえにまた比類なき美しさをたたえ、長く読者に愛惜されて現代に及んでいる。また1887年以降没年までの膨大な日記は私小説風できわめて価値が高い。台東区竜泉に一葉記念館がある。
[岡 保生]
『『一葉全集』全7巻(1953~56・筑摩書房)』▽『『樋口一葉全集』4巻・別巻1(1974~・筑摩書房)』▽『『全集 樋口一葉』全4巻(1979・小学館)』▽『塩田良平著『樋口一葉研究』(1956・中央公論社)』▽『和田芳恵著『樋口一葉伝』(新潮文庫)』▽『和田芳恵著『一葉の日記』(福武文庫)』
(渡辺澄子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
明治時代の小説家。本名奈津(なつ)。東京生れ。15歳のとき中島歌子の萩の舎(はぎのや)塾に入門,桂園派の和歌を学んだが,1889年に父が死去,女戸主として一家の生計を支えてゆくために,職業作家となる決意をかためた。同門の田辺花圃(かほ)が《藪の鶯》を発表して文壇に迎えられたことに刺激されたといわれる。91年《東京朝日新聞》の専属作家半井(なからい)桃水の門をたたいて小説制作の指導を乞い,翌年桃水が主宰する雑誌《武蔵野》第1号に処女作《闇桜》を発表した。その後1年足らずの間に,幸田露伴の作風を模した《うもれ木》を含む7編の短編を公にするが,その多くは和歌的な抒情の世界になずんだ習作の域を出ていない。93年小説を生計の資とする困難を自覚して,本郷菊坂町から吉原遊廓に接する下谷竜泉寺町に転居,雑貨屋を開業した。このころから馬場孤蝶,平田禿木(とくぼく)ら《文学界》同人との交流がはじまり,彼らの浪漫的情熱に啓発されたことと相まって,実生活の苦闘が作家的成熟をもたらすことになった。結局はみのらなかったものの,桃水との恋愛体験も,作品に奥行きを加えるかけがえのない契機であった。94年本郷丸山福山町に転居,肺結核で没する1年余りの期間に,《たけくらべ》《にごりえ》などの名作が発表された。西鶴の文体を規範に,明治女性の〈口惜しさ〉を昇華したところに,一葉文学の特色がある。なお死の直前まで書きつがれた日記は,明治の女書生としての一葉を伝える貴重な人間記録(ヒューマンドキュメント)である。
執筆者:前田 愛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1872.3.25~96.11.23
明治前期の小説家・歌人。本名奈津。なつ・夏子ともいう。東京都出身。父は株を買った御家人で,明治維新後は下級府吏。1886年(明治19)中島歌子の萩の舎塾に入門。88年長兄が病死し,相続戸主となる。翌年父も死去し一家を背負う。三宅花圃(かほ)の「藪の鶯」に刺激をうけ,小説で生計をたてようとする。半井桃水(なからいとうすい)に師事するが,師弟関係が醜聞化し桃水から離れた。92年に発表した「うもれ木」が「文学界」同人の目にとまり,交友が始まる。下谷竜泉寺町・本郷丸山町での生活を背景に「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」などを発表。「たけくらべ」は森鴎外・幸田露伴(ろはん)・斎藤緑雨(りょくう)の絶賛をうけ,文名は一気にあがったがまもなく病没。一連の日記が残る。「樋口一葉全集」全6巻。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…日記文学。樋口一葉が,1887年(明治20),16歳のときから終焉の年までの約10年間にわたって書きついだ生活記録で,途中脱落はあるが,メモや雑記を含めると七十数冊に及んでいる。半井(なからい)桃水との恋にちなむ〈若葉かげ〉〈しのぶぐさ〉をのぞけば,菊坂町時代が〈蓬生〉,竜泉寺町時代が〈塵の中〉,丸山福山町時代が〈水の上〉というように,ほぼ居住地べつに三つのタイトルがえらばれている。…
…樋口一葉の短編小説。1895‐96年(明治28‐29)《文学界》に連載。…
…樋口一葉の短編小説。1895年(明治28)9月《文芸俱楽部》に発表。…
※「樋口一葉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新