ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クリスピ」の意味・わかりやすい解説
クリスピ
Crispi, Francesco
[没]1901.8.12. ナポリ
イタリアの政治家。シチリアで法律を学び,ナポリで弁護士を開業したが,1848年1月パレルモ蜂起に加わってシチリアの臨時革命政権のメンバーとなる。 49年ブルボン政権が復活するとトリノに亡命してジャーナリストとなったが,53年のミラノ蜂起に関係した疑いをもたれて追放され,ロンドンに亡命。ここで G.マッツィーニと会い,ともに共和主義者として意気投合し,イタリアの国家統一を共和制の政体で実現する方針を確認。 59年ひそかにシチリアを訪れて反ブルボン派と連絡をとり,60年 G.ガリバルディのシチリア遠征の組織者の一人となった。シチリア遠征が成功してガリバルディが独裁政権を樹立すると,内相をつとめ反ブルボン闘争を推進。国家統一後新議会に選出されるが,65年君主制を支持することを表明してマッツィーニ主義から離れた。 76年自由主義左派の A.デプレティス政府ができると下院議長に就任し,翌年内相として入閣。 87年デプレティスの死後首相に就任。内政,外交両面にわたって国威発揚の政策をとった。内政では社会主義運動を弾圧する一方,地方行政制度の改革を断行,中央権力による地方支配の体制を整えた。外交面ではフランス敵視政策をとってドイツに接近,三国同盟路線を強化した。さらに積極的なアフリカ進出政策をとり,90年1月にエリトリア植民地を建設。 91年1月首相を退いたが 93年 12月に返り咲き,おりから民衆反乱の様相を呈していたシチリア・ファッシの運動に大弾圧を加え,94年1~8月までシチリア島に戒厳令をしいた。またエチオピア侵略態勢も再び強化して軍事介入を開始したが,96年3月アドワの戦いで致命的な大敗を喫した。この敗戦で首相辞任に追込まれ,政治生命も終った。
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