アバール
Avars
モンゴル系の遊牧騎馬民族で,人種的にはフン族と近縁関係にある。中国の史料に現れる柔然と同一民族であるとの説もあるが,確実でない。確実なのは東部中央アジア(東トルキスタン)にいたとき,エフタル人などとともに一時柔然の支配下にあったことで,北魏の太武帝が柔然を打ち破った(426)のち,その支配から独立したものと思われる。アバール人は460年ごろカスピ海沿岸に現れ,フン系ブルガール人の諸部族を支配下に置いた。さらに西進して,6世紀半ば以降ビザンティン帝国をおびやかし,ランゴバルド人と結んで東ゲルマン・ゴート系のゲピードGepidae族を滅ぼし,ドナウ川地方に定住,隣接のスラブ系諸族を従え,大帝国をたてた。そこからビザンティン帝国,フランク王国に侵入を繰り返したが,624年ビザンティン皇帝ヘラクレイオスに破られて大打撃を受けた。さらに8世紀末フランク国王カール(のちのカール大帝)にエンス川以東まで撃退されて大いに勢力を失い,9世紀には東方から侵入してきたマジャール人に吸収されて,歴史の舞台から姿を消した。
執筆者:平城 照介
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
アバール
あばーる
Avars
フン人と近縁のモンゴル系遊牧騎馬民族。5世紀中葉カスピ海北辺、ドン川下流域に出現、やがてトルコ人に圧迫されてヨーロッパに移り、6世紀中葉にはハンガリー平原に進出、ゲピード人を滅ぼし、ランゴバルト人のイタリア移動後、ドナウ中・下流域を中心に大帝国を建てた。565~566年チューリンゲンに侵入、ビザンティン帝国領内にも侵入を繰り返したが、7世紀中葉よりしだいに勢力が衰えた。788年のバイエルン侵入を機に、フランク国王カールは反撃に転じ、息子のピピンもアバール人の本拠を攻めた。9世紀に入りブルガリア人が勃興(ぼっこう)、アバール人の残存勢力を徹底的に破り、9世紀末東方から侵入したマジャール人に吸収されて、アバール人は姿を消した。
[平城照介]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内のアバールの言及
【ドナウ[川]】より
…5世紀末にはスラブ人がドナウ国境に姿を見せ,6世紀初めからドナウ川を越えてローマ領に侵入しはじめた。 東方の遊牧民の[アバール]人は573年ごろドナウ川を渡り,582年には国境線上の最重要都市シルミウムを落とし,次いで近くのシンキドゥスム(現,ベオグラード)以下の町を破壊した。この結果,ドナウ国境は放棄され,アバールとともに多数のスラブ人がバルカン半島になだれ込んできた。…
※「アバール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」