デジタル大辞泉
「柔然」の意味・読み・例文・類語
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じゅうぜんジウゼン【柔然】
- 四~六世紀に蒙古高原に拠った蒙古系の遊牧民族。また、その国家。「蠕蠕(ぜんぜん)」「茹茹(じょじょ)」ともいう。東晉の初め鮮卑の拓跋氏に隷属したが、その南遷後、四世紀末に拓跋氏の故地を領有、内外蒙古を中心に南満・タリム盆地を支配して北魏に対立した。五世紀末、支配下の高車の反乱で衰え、六世紀中頃突厥に滅ぼされた。〔魏書‐蠕蠕伝〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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柔然【じゅうぜん】
5―6世紀に,モンゴリアで活躍した遊牧民族とその国家で,モンゴル系といわれる。蠕蠕(ぜんぜん)・茹茹(じょじょ)とも書かれる。中核部族は初め鮮卑の拓跋氏に属したが,4世紀に柔然として自立,その君長は可汗(かがん)(ハーン)と称して,拓跋氏の建てた北魏(魏)と対立。5世紀末には内紛が起こり,6世紀半ば突厥(とっくつ)に滅ぼされた。
→関連項目烏孫
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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柔然 (じゅうぜん)
Róu rán
5~6世紀にモンゴル高原を支配した遊牧国家。蠕蠕(ぜんぜん),茹茹(じよじよ),芮芮(ぜいぜい)とも書き,モンゴル系といわれる。中核部族たる郁久閭(いくきゆうりよ)部は初め鮮卑拓跋部に属したが,4世紀その支配を脱して柔然の号を立て,拓跋部の華北建国とともに,かわって内モンゴルを制圧した。402年社崙(しやろん)(?-410)は北アジアのほぼ全域を握って〈丘豆伐可汗〉と称し,以後東西交易路をおさえて北魏を圧迫したが,552年突厥に敗れ四散し,554年完全に潰えた。
執筆者:杉山 正明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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柔然(じゅうぜん)
Rouran
蠕蠕(ぜんぜん),茹茹(じょじょ)などとも書く。5~6世紀にモンゴル高原に拠ったモンゴル系の遊牧民およびその国家。5世紀初めに社崙(しゃろん)が可汗(カガン)となり(在位402~410),高車(こうしゃ)を破ってモンゴル高原,天山東部を支配し,北魏と対立した。しかし,485~486年に支配下の高車が反乱して,アルタイ山脈西南に独立してから衰え,6世紀の中頃,突厥(とっけつ)に滅ぼされた。西方のアヴァールと同じものだともいわれるが,確実ではない。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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柔然
じゅうぜん
5~6世紀にモンゴル高原で活躍した遊牧民族およびその国家。モンゴル系と考える説が有力。蠕蠕(ぜんぜん)、茹茹(じょじょ)、苪苪(ぜいぜい)などとも写されるが、原語は不明。5世紀初頭に、一族長がモンゴル高原の高車(こうしゃ)、匈奴(きょうど)の遺民などを征服して建国し、ハガン(可汗)という君主号を初めて採用して、十進法に基づく軍事・行政組織を整えた。そののち、タリム盆地をも勢力下に置き、北魏(ほくぎ)と対立してその北辺に侵入する一方、青海方面の吐谷渾(とよくこん)を経て南朝諸国に通じた。しかし、支配下の高車が、反乱を起こし485~486年に西走してジュンガル盆地に独立国を建てたため、柔然は衰え、6世紀の中ごろ、高車の後裔(こうえい)である鉄勒(てつろく)の一部族、突厥(とっけつ)に滅ぼされた。西方史料に現れるアバールと同じものといわれるが、確実ではない。
[護 雅夫]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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柔然
じゅうぜん
Rou-ran; Jou-jan
5世紀初頭から6世紀なかばにかけて,モンゴル高原を支配した遊牧民族およびその国家の名。蠕蠕 (ぜんぜん) ,芮芮 (ぜいぜい) などとも写される。5世紀の初め,内外モンゴル高原を中心に興安嶺からタリム盆地にいたる地域を勢力下におき,北魏と対立した。しかし 485~486年に支配下の高車が反乱を起して西走し,アルタイ山脈の南西麓に独立国を建てたため次第に衰え,6世紀中頃突厥に滅ぼされた。西方のアバールと同じものだといわれるが,確実ではない。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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柔然
じゅうぜん
5〜6世紀にモンゴル高原で活躍した遊牧民族。蠕蠕 (ぜんぜん) とも記す
初め鮮卑 (せんぴ) 系拓跋 (たくばつ) 氏(のち北魏を建国)の支配下から独立して北魏と抗争。5世紀初めに最盛期を迎え,アルタイ・天山方面の交通路をおさえて東西貿易で繁栄した。5世紀末支配下のトルコ系高車 (こうしや) が独立し,6世紀半ばに支配下のトルコ系の突厥 (とつけつ) に滅ぼされた。西方のアヴァール人と同一民族ともいわれる。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の柔然の言及
【アバール】より
…モンゴル系の遊牧騎馬民族で,人種的には[フン族]と近縁関係にある。中国の史料に現れる柔然と同一民族であるとの説もあるが,確実でない。確実なのは東部中央アジア(東トルキスタン)にいたとき,エフタル人などとともに一時柔然の支配下にあったことで,北魏の太武帝が柔然を打ち破った(426)のち,その支配から独立したものと思われる。…
【内モンゴル自治区】より
…その後,匈奴は南北に分裂,そのうち南匈奴は漢に服属し,やがて中国北部へ農耕民として入っていった。彼らのあと,この地には東胡の子孫である鮮卑が入るが,彼らは中国に北魏王朝を樹立,こんどはトルコ系の柔然がこの地一帯を支配した。しかし,6世紀中ごろアルタイ地方から勢力をのばしてきた突厥(とつくつ)がこれを滅ぼし,隋・唐をおびやかすに至った。…
【モンゴリア】より
…なかでも[拓跋氏](たくばつし)はその本拠地を内モンゴルからしだいに長城内にうつし,のちに北魏を建て,中国北部を支配した。4世紀後半南下した鮮卑のあとをうけてモンゴリアを支配したのは[柔然](じゆうぜん)である。柔然はさらにジュンガリアからタリム盆地にまで勢力を広げた。…
※「柔然」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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