ピピン(読み)ピピン[しょう](英語表記)Pippin der Ältere

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピピン」の意味・わかりやすい解説

ピピン(小)
ピピン[しょう]
Pippin III, der Jüngere; Pépin III, le Bref

[生]714/715
[没]768.9.24. サンドニ
フランク王国カロリング朝初代の王 (在位 751~768) 。ピピン3世,短躯王,ペパンとも呼ばれる。宮宰カルル・マルテルの子で,741年に兄カルロマンとともに宮宰の地位を分け,743年に空位であった王位にヒルデリヒ3世をつけた。兄の修道院入りにより,フランク王国の実質的支配者となり,教皇黙認を得て国王ヒルデリヒ3世を廃し,751年 10月から 752年1月のソアソン会議で推されてみずから王位につき,カロリング朝を開いた。その後教皇のために北イタリアのランゴバルド王アイストゥルフを討ち,ラベンナ地区を教皇に献じ,教皇領発端をつくった (→ピピンの寄進 ) 。長子カルル1世 (大帝)がピピンの位を継いだ。

ピピン(中)
ピピン[ちゅう]
Pippin der Mittlere; Pépin le Jeune

[生]635頃
[没]714.12.16. リエージュ近郊ジュピル
フランク王国宮宰ピピン2世,ペパンとも呼ばれる。大ピピンの孫で,662年叔父グルモアルドの野望による一家虐殺から逃れ,679年アウストラシア分邦の宮宰の地位を取り戻した。ネウストリアの宮宰ベルカリウスを 687年のテルトリの戦いで破り,ネウストリア王テウデリヒ3世を全フランク人の王として認めるとともに,自身はネウストリア,ブルグンドの宮宰も兼ねてフランク王国の実権を握った。

ピピン(大)
ピピン[だい]
Pippin der Älter; Pépinl'Ancien

[生]?
[没]640
フランク王国メロビング朝のアウストラシア分邦の宮宰ピピン1世,ペパンとも呼ばれる。娘ベッガをメッツ司教の子アンセギゼルと結婚させ,その子孫カロリング朝を築いたために,同朝の始祖といわれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピピン」の意味・わかりやすい解説

ピピン(小)
ぴぴん
Pippin der Jungere
(714―768)

カロリング朝初代のフランク国王(在位751~768)。短躯(たんく)王ともよばれた。父カール・マルテルの死(741)後、兄カールマンとともに、それぞれノイストリア、アウストラシアの宮宰として、フランク王国を共同で統治した。743年、メロビング家のヒルデリヒ3世を名目的国王に迎えたが、実権は兄弟で握り、747年、兄の引退後は、全王国の宮宰として実力を振るった。国内有力者の支持と、教皇ザカリウスの承認のもとに、751年ヒルデリヒ3世を廃して王位につき、カロリング朝を開いた。司教ボニファティウスのライン川以東地域へのキリスト教布教を援助し、たびたび教会会議を招集して、教会改革を進めた。二度(754、756)にわたり、イタリアに遠征して、ランゴバルド王アイストゥルフを破り、ラベンナ大守領を奪って、これを教皇に寄進した(教皇領の起源)。また、バイエルン大公タシロ3世を討って、国王への臣従を誓わせ、ナルボンヌイスラム教徒から奪回した。

[平城照介]


ピピン(中)
ぴぴん
Pippin der Mittlere
(?―714)

フランク王国アウストラシアの宮宰。カロリング家の祖。アウストラシアの豪族大ピピンの娘ベッガとメッツの司教アルヌルフの息子アンセギゼルとの間に生まれた。ノイストリアの宮宰エブロインと争い、テルトリーの戦い(687)でこれを破ったのち、ノイストリア、ブルグントの支配権をも掌握して、王国全体の実権を握った。アラマン人を討って、フランクの宗主権を認めさせ、フリーセン人を征服して、西フリーセンをフランク王国に併合した。またアングロ・サクソン・ミッションに援助を与え、教会改革を意図して、全国の教会会議を招集した。

[平城照介]


ピピン(大)
ぴぴん
Pippin der Ältere
(?―639)

フランク王国アウストラシアの宮宰。アルデンヌ北方に所領をもった豪族の家門の出。クロタール1世死(561)後のフランク王国の内乱に際し、メッツの司教アルヌルフと結び、ブルンヒルトに対抗して、フレデグンデの息子クロタール2世を擁立し、全国統一を実現させた。娘ベッガをアルヌルフの息子アンセギゼルと結婚させ、2人の間に生まれたピピン(中)がのちにカロリング家の祖となった。

[平城照介]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例