日本大百科全書(ニッポニカ) 「イラン・コントラ事件」の意味・わかりやすい解説
イラン・コントラ事件
いらんこんとらじけん
Iran-Contra affair
アメリカ合衆国のレーガン政権が引き起こした政治スキャンダル。
1986年11月、ホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)がイランに対し、1985年夏から1986年秋にかけてイスラエル経由などで対戦車や対空ミサイル、戦闘機部品を極秘裏に輸出し、その代金の一部をニカラグアの反政府右派ゲリラ「コントラ」への援助に流用していたことが発覚した。当時アメリカ政府は「テロ支援国家イラン」とは交渉せず、武器の輸出もしないことを国際的に宣言しており、コントラに対する援助も議会によって法的に禁止されていた。ホワイトハウスがひそかにこれらに違反し、大統領であったレーガンがそれを止めなかったことは議会・世論の激しい非難を浴び、政権は最大の危機にみまわれた。
工作は、レバノンの親イラン系組織に人質とされたアメリカ人を解放させることが目的だった。ロバート・マクファーレンRobert Carl McFarlane(1937― )が大統領補佐官であった時代に始められ、NSCの軍政部次長オリバー・ノースOliver North(1943― )が、国家安全保障担当補佐官ジョン・ポインデクスターJohn Marlane Poindexter(1936― )の了解の下で具体的に進めたことが判明。これらに関するレーガン自身の事件への指示・関与の疑惑や、副大統領のG・H・W・ブッシュをはじめとした政権中枢のかかわりの有無が最大の焦点となった。
当初事実を全面否定していたレーガンは、結局イランへの武器供与に承認を与えていたことは認めた。事件の調査は、ジョン・タワーJohn Tower(1925―1991)が議長を務める三人委員会、上下各院の特別委員会、特別検察官(独立法務官)に任命されたローレンス・ウォルシュLawrence Edward Walsh(1912―2014)によりそれぞれ進められた。ウォルシュは1994年の最終報告書で、レーガン、G・H・W・ブッシュはともにイランへの武器供与を承知し、発覚後は隠蔽(いんぺい)工作に関与したが、コントラへの流用は知らなかったと認定した。レーガン個人の責任追及には至らなかったが、ノース、ポインデクスターらは起訴され有罪となった。事件は高人気を誇ったレーガンの統治能力の欠如を浮き彫りにし、レーガンが掲げた「強いアメリカ」の国際的な威信を深く傷つけた。また、安全保障政策決定のあり方や秘密工作の是非を国民に問い直す契機ともなった。
[村松泰雄]
『大塚喬重著『ポスト・レーガン アメリカの混迷』(1987・立風書房)』▽『花井等著『アメリカの大統領政治』(1989・日本放送出版協会)』