インド国民会議派(読み)インドこくみんかいぎは

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インド国民会議派」の意味・わかりやすい解説

インド国民会議派
インドこくみんかいぎは
Indian National Congress

インドの政党インド独立運動に際し最大の役割を果たした。 1885年イギリス人アラン・オクタビアン・ヒューム斡旋によって開かれたインド人知識層を中心とするボンベイでの第1回国民会議が起源。当初活動は穏健であったが,ベンガル分割 (→ベンガル分割法 ) 以後急進化し,1906年カルカッタ大会ではボイコット (イギリス製品不買) ,スワデーシ (国産品愛用) ,スワラージ (自治) ,民族教育をスローガンとした。イギリスは第1次世界大戦での対英協力の見返りにインド側に自治権を与えることを約束したが守らず,さらにローラット法による弾圧を続けたため,国民会議派はマハトマ・ガンジーらを中心に労働者,農民を加えた非暴力,非協力の新しい大衆運動を進めた。 1929年のマドラス大会ではジャワハルラル・ネルーらを指導者として「完全独立」を決議し,1937年の第1回総選挙で大勝した。第2次世界大戦中はイギリス支配の即時終結を要求し,1942年非合法化されたが,戦争終結とともに合法化された。 1947年の分離独立後,ネルーの指導のもと一貫して政権を担当したが,ネルーの死後 1966年,インディラ・ガンジー首相に就任した頃から党内対立が表面化,1969年 11月には銀行国有化政策をめぐってついに分裂した。保険国有化,旧藩主の特権廃止など革新政策をあらためて打ち出すインディラの派閥は国民会議派左派と呼ばれ,右派共産党 (→インド共産党 ) の協力で混迷した政局を乗り切り,1971年3月の総選挙で勝利を収め,さらなる社会主義化政策を推し進めた。しかし産業政策のつまずきなどから反ガンジー機運が高まり 1975年6月 26日ついに非常事態を宣言,強圧政治に踏み切ったが,1977年3月の総選挙で大敗し,独立以来初めて野党に政権を譲り渡した。 1980年1月の総選挙で再び与党に返り咲いたものの,インディラの政治姿勢は変わらず,とりわけシク教徒に対する武力制圧は強い反発を招き,1984年 10月シク教徒によりインディラは暗殺された。 1984年 12月の総選挙によって成立したラジブ・ガンジー政権は,政治理念を欠いた独断的政治が目立ったうえ,汚職報道と世論批評に直面し,1989年 11月の総選挙で敗北。 1991年6月の総選挙で国民会議派は再び政権を獲得したが,選挙期間中ラジブも暗殺された。新しいナラシマ・ラオ政権は経済自由化を進めたものの貧富の差が拡大したことで反発を受け,1996年総選挙でインド人民党に第1党の座を奪われた。 2004年マンモハン・シン首相のもと約8年ぶりに政権を担当。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「インド国民会議派」の意味・わかりやすい解説

インド国民会議派
いんどこくみんかいぎは

国民会議派

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