日本大百科全書(ニッポニカ) 「エベール」の意味・わかりやすい解説
エベール(Anne Hébert)
えべーる
Anne Hébert
(1916―2000)
カナダの女流作家。詩人、小説家で劇作もある。フランス系。詩人サン・ドニ・ガルノーとは従妹(いとこ)。作品も、血縁でもあり、また同時代人でもあるガルノーの繊細で幻想的な面を受け継いでいる。両者ともに病弱であった点も共通している。とはいえ、早逝したガルノーとは異なり、エベールは長寿で、文学活動は60年に及んだ。ケベック市の近郊サント・カトリーヌ・ド・フォッサンボオで、文学一家(父モーリスは1930年代に活躍した作家・批評家、兄は演劇人)の一員として生まれる。ケベック市の大学(コレージュ)で学業を修めるが、作家としては独学。34年に創刊されたフランス系カナダの文芸雑誌『ラ・ルレーブ』(再起)の周辺に在って文学活動に入る。42年に詩集『平衡の夢』を、50年には短編集『激流』を発表。これらは、当時のフランス系カナダ社会が置かれていた状況、さらにはその伝統(大家族制とそれに君臨する母親、カトリック教会)の権威と束縛に反抗して、自己の実現と生命の充実感とを求める声を繊細な文体で表現した、フランス系カナダにおける明確な反抗(プロテスト)文学の、もっとも初期の作品である。
1950年代にはカナダ国営放送(フランス語)のために脚本執筆。53年に詩集『王たちの墓』を発表。54年から3年間「カナダ王立協会」の奨学金でフランスに滞在した後、一時帰国する。しかし61年にはふたたびカナダ・カウンシルの研究員として、後年ケベック独立運動(熱い革命)に発展することになる「静かな革命」が始まろうというまさにそのときに渡仏。この転居はケベック社会の変革を志す人々からは、「知識人の政治参加への拒否」と受け取られ、論議をよんだ。67年以降は本拠をパリに定め、夏には一時ケベックに帰るという生活を続けた。その間に、ケベックを主題とした代表作『カムラスカ』(1970・小説。邦訳『顔の上の霧の味』講談社、映画化される)、82年にはフランスの有力な女流文学賞フェミナ賞を受賞した幻想的な小説『バッサンの狂者たち』を書くほか、1997年にはパリを舞台にした小説『お邪魔?』を発表している。カナダ、フランス、ベルギー、アメリカなどから多くの文学賞を受賞。アルベール・ベガン、アンドレ・ルッソオなど、フランスの批評家からも高い評価を受けた。
[西本晃二]
エベール(Jacques-René Hébert)
えべーる
Jacques-René Hébert
(1757―1794)
フランス革命期のジャーナリスト、政治家。アランソンの富裕な金銀細工商の子。母は貴族出身。9歳で父が死亡、家運が傾き、弁護士を志して法律を学び、26歳のときパリに出て、ボヘミアン生活の窮乏をなめる。革命が勃発(ぼっぱつ)する(1789)と、新聞、パンフレットなどの盛行をみてジャーナリストたろうと決心、野卑な文章で人気を得たアンリクの『くそくらえ』紙にヒントを得、1790年に新聞『デュシェーヌ親父』Le Père Duchesneを発刊する。民衆そのままのこの人物に俗語、卑語で日々の事件を語らせ、たちまちパリ下層の急進的な民衆に対するプロパガンダの代表たる地位を獲得する。これを足場に政治に進出、コルドリエ・クラブに加入、各セクションの急進派の一中心としてパリ・コミューンに勢力を確保、1792年8月10日の蜂起(ほうき)に活躍、ジロンド派の憎しみ、恐れの的となり逮捕されるが、民衆蜂起の脅迫によりただちに釈放される。1793年5月~6月のジロンド派追放の一翼を担ったが、ロベスピエール派の権力掌握後は、これをなお穏健なりとするモンターニュ(ジャコバン)派左派のリーダーとなり、「理性の祭典」など非キリスト教化運動を推進した。1794年3月、革命派を装う外国人の陰謀事件加担を理由に、同志とともに逮捕され、同月24日ギロチン上で刑死した。エベール派とよばれた左派の切り捨ては、結果的にはテルミドールの反動の一因をなしたといえる。
[樋口謹一]