フランスの政治家。エコール・ノルマル出身の高等学校教授として出発したが、ドレフュス事件に際して急進社会党に入党し、1905年以後その死まで、ビシー政府時代を除いてリヨンの名物市長であった。国政においては1912~1919年上院議員、1919~1957年下院議員を務めたが、その間、1916~1917年第五次ブリアン内閣の公益事業相となり、1919年から急進社会党総裁でもあった。1924~1925年には左翼連合内閣の首相兼外相としてルール撤兵やソ連承認などの業績をあげたが、内政では財界の抵抗(エリオの命名によれば、「金銭の壁」)に改革を阻まれた。1926年の第二次エリオ内閣は数日で倒れ、1932年の第三次内閣も第一次のそれと似た経過をたどり数か月で挂冠(けいかん)した。その後1936~1940年、1947~1954年には下院議長を務めた。ヨーロッパ統合論者として知られ、文学的著作も多い教養豊かな文人政治家であったが、政治的業績はその名だたる雄弁ほどではなかった。
[平瀬徹也]
フランスの政治家。第1次世界大戦後,フランス議会における中道左派勢力である急進社会党の党首として活動。1924年の議会選挙に際し,1919年以来政治の主導権をにぎっていた右派諸勢力の結集する〈ブロック・ナシヨナル〉に対抗し,社会党(SFIO)などと〈左翼カルテル〉と呼ばれる連合政策をとって勝利,首相となる。この内閣は1年弱の短命に終わったが,その間,ドイツの賠償に関しドーズ案を受け入れ,他方,ソビエト政府を承認するなど,国際協調をうたったその外交は〈エリオ外交〉の名で呼ばれた。以後3次にわたり首相。また,閣僚,下院議長を歴任。35年,人民戦線の結成に参加,翌36年選挙における人民戦線の勝利とともに再度下院議長となる(-1940)。第2次世界大戦下,ビシー政府により逮捕され,44-45年にはドイツに監禁されたが,戦後復帰,国民議会の議長を政界引退までつとめた(1947-54)。また1905年以来,長くリヨン市長でもあった。
執筆者:加藤 晴康
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1872~1957
フランスの政治家。1919年急進社会党の代議士となる。24年に保守派に対抗して左翼連合内閣を組織して以来,首相,外相を何度も務めた。外交面では平和政策をとり,ルールから撤兵し,国際紛争平和解決に関するジュネーヴ議定書を成立させた。進歩的共和主義思想の持ち主として,また文学史,音楽史に造詣深い文人政治家として知られる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…党は結党当初から政府に参加し,02‐05年にはコンブÉmile Combesが,11‐12年にはカイヨーが内閣を組織したが,第1次大戦後初の総選挙では国民ブロックに敗北した。24年には左翼連合の勝利にともない,エリオが社会党の閣外協力を得て組閣したが,財界の抵抗はフラン価の低落を引きおこした。続く左翼諸政府もフランの低落をとめられず,26年にはポアンカレの国民連合内閣に道を譲った。…
※「エリオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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