フランスの政治家。ナントの生まれ。当初社会主義者とくにゼネラル・ストライキ至上主義のサンディカリストとして政治活動に入ったが、しだいに改良主義に移行し、ジョレスらとともにフランス社会党を創設、1902年代議士となる。調停的能力に優れ、1905年の政教分離法を成立させ、また同年ジョレスらとともに社会主義諸政党を統合して統一社会党SFIO創立に尽力した。しかし翌1906年党の「ブルジョア内閣入閣禁止」方針に反対して脱党し、独立社会党に加わって、サリアン内閣に文相として入閣、カトリック対策を担当した。以後歴任した大臣ポストは25、首相就任回数は11を数える。その間第一次内閣下で起こった1910年のゼネストには峻烈(しゅんれつ)な弾圧で臨み、ドイツとの対立を前にしては、対独強硬派のポアンカレの大統領選出に、また兵役年限の延長に大きな役割を果たすなど社会主義色を完全に払拭(ふっしょく)していった。第一次世界大戦中は2次にわたり首相を務めたが、戦勝に導くことができなかった。
ブリアンの真価は、大戦後の平和外交において大いに発揮された。1925年4月~1932年1月の間外相の任にあり(うち1925年11月~1926年7月、1929年7~10月首相)、「ブリアン外交」の一時代を画した。おもな業績としては、ルール地方占領軍の撤退(1925年8月)、ロカルノ条約の正式調印(同年10月)、ドイツの国際連盟加盟(1926年9月)、連合国対独軍事管理委員会の廃止(1927年1月)、パリ不戦条約(ケロッグ‐ブリアン条約)の成立(1928年8月)、条約上の期限を4年余して行ったライン地方からの占領軍引揚げ(1930年6月)などがあげられるが、これらに主動的役割を担うことにより、ドイツとの関係改善、西欧の安全保障、ひいては世界の平和増進に大きく貢献した。1930年6月の欧州連邦案は、第二次世界大戦後の西欧の統合に示唆を与えたといわれる。1926年12月ノーベル平和賞受賞。
[石原 司]
チェコスロバキアの演出家、作曲家。ピルゼンに生まれる。プラハの音楽学校で作曲を学び、演劇活動も熱心に行う。作曲家としては、1925年国立劇場上演のオペラ『日の出前』でデビュー、仲間と「デベエット・シール」を結成、『ボイス・バンド』演奏によってヨーロッパで有名になる。解放劇場、ブルノー劇場、国立劇場を経て、34年プラハで劇団「D34」を創設、以来チェコ・アバンギャルド演劇の推進者として世界の注目を浴びた。第二次世界大戦中はナチズムに抵抗し収容所に入る。戦後、社会主義社会建設の過程で、音楽、舞踊、美術の要素を総合した詩的で民族的な演劇空間をつくった。
[村井志摩子]
フランスの政治家。サン・ナゼールで弁護士出身のジャーナリストとして政治に関心をもつうち,友人ペルーティエの影響を受けて労働運動に接近,パリに移住後,左翼の名門紙《ランテルヌ》編集陣に加わるとともに社会主義政党の全国大会を歴訪,病弱の友人にかわってゼネストによる社会改革を唱えた。1890年代後半,労働運動における革命的な立場の代表者の一人として社会主義諸政党の間で尽力したが,ミルラン入閣問題に際して入閣支持を表明して以降その立場は転換し,1902年下院議員当選後は政権参加を狙うに至った。05年に成立した統一社会党にいったん参加したのち,党規が党員の入閣を禁じたためにこれを離れ,06年サリアン内閣に文相として参加,10年には内相兼任の首相として鉄道員ゼネストの弾圧を指揮,これを失敗に終わらせた。第1次大戦後は国際平和の確立に関心を示し,ことに25年以後はほぼ一貫して外相の地位にとどまり,ドイツとの協調を軸とする安全保障体制の確立に尽くした。主たる業績は独仏国境の安定を保障するロカルノ条約成立(1925),ドイツの国際連盟加入実現(1926),ケロッグ=ブリアン条約(不戦条約)成立(1928)などであり,また30年にはヨーロッパ27ヵ国にあててヨーロッパ連邦結成に向けた覚書を送付したが実現を見るにはいたらなかった。首相就任10回を含めて,計24回入閣,31年には大統領の座を争ったが敗れ,間もなく死去。26年にシュトレーゼマンとともにノーベル平和賞を受賞した。
執筆者:相良 匡俊
チェコの演劇および映画の監督で劇作家。自ら映画音楽を作曲したり,演劇論を執筆するなど多才で,両大戦間には解放劇場において俳優,歌手,音楽家としても活躍した。演劇での新しい道を探り,古典作品の音楽劇化で知られる。1954年〈国民芸術家〉となった。
執筆者:千野 栄一
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1862~1932
フランスの政治家。最初社会党の代議士としてカトリック教会規制を強く主張し,1905年の政教分離法を成立させた。06年,社会党を脱してのち,労働運動の抑圧を行い,社会主義から離れた。第一次世界大戦後首相を11回,外相を10回務め,ワシントン会議,ロカルノ条約,不戦条約の指導・成立に力を尽くし,集団安全保障を主柱とする平和外交を推進した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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