改訂新版 世界大百科事典 「ビシー体制」の意味・わかりやすい解説
ビシー体制 (ビシーたいせい)
Régime de Vichy
第2次世界大戦でフランスがドイツに降伏したのち,フランス中部のアリエ県の小都市ビシーを政府所在地として成立した政治体制の通称。
1940年6月22日降伏し停戦協定が調印された結果,フランスはパリを含む北部および大西洋岸一帯をドイツ軍の占領地区,中南部を〈自由地区〉として分断され,6月10日以来パリを退去してボルドーにあった政府は,6月末日中部の温泉地ビシーにその所在地を移した。停戦協定に調印したのは時の首相ペタン元帥であったが,7月10日彼は国民議会の投票(569票対80票)によって第三共和政に終止符をうち,〈フランス国家État français〉の名で新政体を発足させる憲法上の全権を付与され,翌日国家主席の地位についた。こうして成立した新政府は,〈労働・家族・祖国〉をスローガンにかかげて,〈国民革命〉をうたった。農業を国の本として土地への回帰を説き,農民を協同組合に編成する政策を進める一方,家父長主義的な家族のつながりを強調し,またペタンを父にも比して国民の精神的結合を求め,教育改革を行い,半軍事的な訓練組織を含む各種の青少年団運動を組織した。他方,これまでの全国的な労働組合組織を解散して〈労働憲章〉を定め,争議行為を禁止し,公認された地域的な組合への労働者の加入を義務づけつつ,経済政策の上では技術官僚を登用して,産業への国家の指導性を強めようとするなどの政策を進めた。
しかし,現実にはこの政権の独立性はきわめて限定されたものであった。停戦協定によって軍隊は治安維持に必要な兵力を残して解体され,占領軍の費用はフランスが負担することとなり,ドイツの戦争遂行上の必要が行政に優先されるなど,きわめて従属性の強いものであった。政府内部ではペタン自身はドイツへの譲歩を最低限に抑え,とくにほとんど無傷で残っていた海軍力や植民地支配体制の温存をはかったといわれるが,副首相であったラバルPierre Lavalは積極的な対ドイツ協力を目ざしたとみなされ,40年12月には彼が突然解任され逮捕されるという事態が生じた。しかし後任のP.É.フランダンはドイツ側の介入によりまもなくダルラン提督に替えられ,のちにラバルも政府に復帰(1942年4月)して政府の中心の地位につき,新たに権力を強化していった。また政府の外では,J.ドリオやM.デアらの諸組織が活動し,とくに北部の占領地区で,ナチズムやそれの唱える〈ヨーロッパ新秩序〉の理念に接近し,ビシー政府の政策を伝統主義的なものとみなしてファシズム化の徹底を主張したが,政府のこれらに対する指導力は乏しかった。しかも他方,すでに40年6月の敗北の当時からロンドンで抗戦継続を訴えていたド・ゴール将軍がビシー政府の権威を否定し,〈自由フランス〉の名でフランス国民の結集を呼びかけ,しだいにその権威を増大させていった。当時はド・ゴールの名は国内においてほとんど知られず,圧倒的多数の人びとは敗戦による混乱の中でペタンに救国の期待をかけていたとみなされる。しかし,ドイツ軍の占領当初より始められていた人びとの占領軍に対する不服従や抵抗の動きが拡大するにつれ,このレジスタンスの力はビシー体制の基盤を下から掘りくずすものとなっていき,植民地の軍や行政機構も戦局の推移につれてド・ゴールを支持する傾向が強くなっていった。
ビシー政府は〈国民革命〉を唱えた当初から共和政との絶縁を目ざし,社会主義者や共産主義者への弾圧のみならず,行政機関や教育機関内でも従来の第三共和政につながる人びとの追放を行い,その数は40年末には早くも約2万1300名にのぼったといわれる。まして国内のド・ゴール派やレジスタンスの動きへの対処の必要は,警察力の強化と人びとの日常への監視体制を強いるものであった。また,ユダヤ人に対しては40年10月にはその身分規定を発表して管理統制に乗り出し,外国籍ユダヤ人を特別収容所に入れる(1940年末で約4万人収容)など,反ユダヤ人政策を推し進めた。やがてドイツの〈最終解決〉政策の展開とあいまってユダヤ人の強制収容は拡大され,42年春にはユダヤ人のドイツへの強制移送も開始された。こうしてビシー体制は強権的な警察国家体制の性格を強く示した。準軍事的な組織をもちドイツのゲシュタポと協力して活動する民間のファッショ団体によってこの抑圧体制は増幅され,やがて占領体制がフランス全土に拡大したとき,J.ダルナンが編成した〈民兵〉はとくに悪名高いものとなった。ドイツが自国の兵力動員による労働力不足の補いとしてフランス人労働者を求めたことは,人びとにとって上のような抑圧体制がもつ意味を決定的なものにした。はじめは志願制がとられたが,ドイツ側の増大する要求と圧力によって,42年9月4日,ラバルは労働力強制動員の法令を定め,43年2月16日にはついに1920-22年生れの青年すべてがドイツで労働する義務を負う労働徴用制度(STO)が実施されることになった。この制度によってドイツに送られた人数は62万5000ないし70万人と見積もられているが,その一方で徴用を逃れて山野などに隠れ住み,あるいはレジスタンスに投ずる青年が続出した。一部にはドイツ行きを避けるためにダルナンの〈民兵〉に加わる者もあったとはいえ,上のような事態は占領支配およびビシー体制と人びととの亀裂を一挙に深化させることになった。
42年11月,連合軍が北アフリカに上陸したことに対応し,ドイツ軍はそれまでフランス北部に限定していた占領体制を全土に拡大した。この結果,ビシー政府は実質的な権限をほとんど失い名目だけの存在となった。すでにラバルがこの政府の事実上の中心であり,先にふれた〈民兵〉制やSTOをはじめとするその政策は,占領軍に対する協力以外の何ものでもなくなった。44年連合軍の進撃とフランス解放の拡大により,4月17日ラバルが招集した閣議が最後のものとなり,同20日撤退するドイツ軍とともにペタンがビシーから去ってドイツに赴くことが強制され,ビシー政府は事実上その幕を閉じた。
→レジスタンス
執筆者:加藤 晴康
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報