フランス語で〈新しい波〉の意で,1950年代末にフランスで起こった新しい映画の動きがこの名で呼ばれ(英語ではnew wave),以来,〈新しい映画〉〈若い映画〉の代名詞となり,映画以外の分野でも革新的な動向や新しい世代をさして使われることがあるほど一般的なことばになっている。
そもそもは映画のための用語ではなく,週刊誌《レクスプレス》で1957年の9月から12月にかけてフランソワーズ・ジルーFrançoise Giroud(1916-2003)が行ったフランスの若者の生活と意見をめぐるアンケートにつけられた題名で,のちにこれは《ヌーベル・バーグ--フランスの青春群像》の題で1冊の本にまとめられた。それをフランス映画の新しい世代の誕生にあてはめて初めて使ったのは映画雑誌《シネマ58》第24号(1958年2月号)のピエール・ビヤールといわれ,58年から59年にかけて,たちまち若いフランス映画を意味する特別な表現になった。58年には14人,59年には22人の新人監督が長編映画の第1作を撮るという,かつてない激しい映画的波動がわき起こり,さらに60年には43人もの新人監督がデビュー,アメリカの雑誌《ライフ》が8ページの〈ヌーベル・バーグ〉特集を組むに至って,世界的な映画現象として認識されることになった。
こうしたフランス映画の若返りの背景には,国家単位で映画産業を保護育成する目的で第2次世界大戦後につくられたCNC(フランス中央映画庁)の助成金制度が新人監督育成に向かって適用されたという事情があるが,その傾向を促すもっとも大きな刺激になったのが,山師的なプロデューサー,ラウール・レビRaoul Lévy(1922-66)の製作によるロジェ・バディムRoger Vadim(1928-2000)監督の処女作《素直な悪女》(1956)の世界的なヒット,自分の財産で完全な自由を得て企画・製作したルイ・マルLouis Malle(1932-95)監督の処女作《死刑台のエレベーター》(1957)の成功,そしてジャン・ピエール・メルビル監督の《海の沈黙》(1948)とアニェス・バルダ監督の《ラ・ポワント・クールト》(1955)の例にならった〈カイエ・デュ・シネマ派〉の自主製作映画の成功--クロード・シャブロルClaude Chabrol(1930- )監督の処女作《美しきセルジュ》(1958),フランソワ・トリュフォー監督の長編第1作《大人は判ってくれない》(1959),ジャン・リュック・ゴダール監督の長編第1作《勝手にしやがれ》(1959)--であった。スターを使い,撮影所にセットを組んで撮られた従来の映画の1/5の製作費でつくられたスターなし,オール・ロケの新人監督の作品が次々にヒットし,外国にも売れたのであった。
スターを使わず,セットも使わず,少数編成のスタッフで,オール・ロケ,隠しカメラ,即興演出による低額予算映画という条件のほかに,助監督として修業を積んでから映画をつくるという従来の撮影所システムを全面的に廃棄して,若いときでなければ撮ることのできない真の若い映画を急いで撮ること,そつなく〈よくできた〉非個性的な傑作よりも,意欲的な失敗作をつくること(〈失敗することは才能である〉とトリュフォーは高らかに宣言した),そして現実の人生とは関係のない〈絵空事〉ではなく生活をそのままフィルムにとらえた〈日記のような個人的な映画〉をつくることをめざしたのが,1951年に創刊された映画研究誌《カイエ・デュ・シネマ》の批評家出身の映画作家たちで,狭義の(あるいはむしろ,真の)〈ヌーベル・バーグ〉はこの〈カイエ・デュ・シネマ派〉をさす。上記のシャブロル,トリュフォー,ゴダール以外では,ピエール・カスト(《ポケットの恋》1957),ジャック・ドニオル・バルクローズ(《唇によだれ》1960),エリック・ロメール(《獅子座》1959),ジャック・リベット(《パリはわれらのもの》1961)らがこのグループに属する。
〈ヌーベル・バーグ〉の最初のマニフェストとして知られるのは,54年にトリュフォーが《カイエ・デュ・シネマ》第31号に書いた《フランス映画のある種の傾向》と題する論文で,当時〈良質の映画〉〈優秀映画〉といわれていた文芸映画(スタンダール,ジッド,コレットらの文学の〈忠実な映画化〉)の伝統を告発し,映画はシナリオライターの脚色の力に支えられたその内容によってではなく,監督=作家(オートゥールauteur)の方法論を反映したフォルムによって評価されるべきであることを主張した。これが〈ヌーベル・バーグ〉の理論的支柱となった〈作家主義〉(あるいは〈“オートゥール”理論〉)の母胎となる。もちろん,それ以前に《カイエ・デュ・シネマ》の主導者であったアンドレ・バザンAndré Bazin(1918-58)の〈映像本体論〉(1945)やアレクサンドル・アストリュックの有名な〈カメラ万年筆〉論(1948。《レクラン・フランセ》第144号)といった先駆的なマニフェストがあったことも忘れてはならない。とくにバザンの影響は大きく(〈作家主義〉という表現を最初に使ったのもバザンだった),彼は,古今東西の映画を上映して映画史を教えたシネマテーク・フランセーズの事務局長アンリ・ラングロアHenri Langlois(1914-77),〈映画は人なり〉と教えたジャン・ルノアール(ピエール・カストやジャック・リベットは助監督についたこともある),そして〈ヌーベル・バーグ〉の若い作家たちのシナリオを読んでアドバイスを与えたロベルト・ロッセリーニとともに,〈ヌーベル・バーグ〉を育て上げた偉大な父親的存在であった。
〈カイエ・デュ・シネマ派〉の注目すべき活動は,日本映画史における鳴滝組を想起させるような,仲間どうしによるシナリオの合作や映画の共同企画・製作を積極的に行ったことである。ゴダールの《勝手にしやがれ》にはトリュフォー(原案)とシャブロル(監修)が名をつらね,リベットの《パリはわれらのもの》には共同製作者としてトリュフォーとシャブロルが参加している。そして名まえこそ出てはいないものの,当時の彼らの作品はすべて実質的に〈共同作業〉によってつくられたものといわれる。しかし,才能も個性もまったく異なる集団であったから,周囲からは〈マフィア〉などと呼ばれてはいたものの,当然ながら分裂解体,というよりはむしろ拡散していき,1968年の5月の動乱の折には,その政治的に緊迫した状況のなかで,カンヌ映画祭粉砕という形で一時結束はしたものの,それを頂点として,〈革命的闘争映画〉に走ったゴダールと商業映画に戻ったトリュフォーとの宿命的な決別を象徴的な事件として,この〈友情集団〉も解体し,そしてそれから15年後の84年10月,〈ヌーベル・バーグ〉の創始者の最初の死ともいうべきトリュフォーの死を迎える。〈ヌーベル・バーグ〉は,〈イタリアのネオレアリズモのような一貫した思想的立場から発したものではなく,野心的な映画青年の集団であったのだから,早晩分裂解体する宿命にあった〉(岩崎昶)ということにその映画史的な意味があるのではなく,たとえば助監督をつとめずに自主製作の映画を撮るとか,セットなしのオール・ロケ,即興演出,隠しカメラなどといった映画づくりのありかたは今ではごくあたりまえになっており,むしろそのような形でその遺産が残されていることにこそ意義を見いだすことができよう。
執筆者:山田 宏一
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1958年ごろから輩出した新しいフランス映画をさす総称で、フランス語で「新しい波」を意味する。初め週刊誌『レクスプレス』が一般的に使ったが、クロード・シャブロルの『いとこ同志』(1958)、フランソワ・トリュフォーの『大人は判(わか)ってくれない』(1959)、ジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)などが登場すると、映画製作の経験がほとんどない20代の青年たちがつくる斬新(ざんしん)な映画とそのグループをさす呼称になった。中心になったのは映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』で批評の筆をとっていた人々(前記3人を含む)であるが、とくにゴダールの『勝手にしやがれ』はアメリカのギャング映画を下敷きにしながら、映画文法の無視、演劇的演技や心理描写の拒否、といった一見アマチュアリズムの居直りとも思える映画スタイルによって観客を驚かせた。ヌーベル・バーグ誕生に大きな影響を与えた先達としては、映画監督のアレクサンドル・アストリュックAlexandre Astruc(1923―2016)、『カイエ・デュ・シネマ』の理論家アンドレ・バザンがいる。トリュフォーらはバザンの批評をさらに進め、ハリウッド映画を高く評価して批評軸の転換をもたらした。『カイエ・デュ・シネマ』派にはほかにジャック・ドニオル・バルクローズJacques Doniol-Valcroze(1920―1989)、エリック・ロメール、ジャック・リベットJacques Rivette(1928―2016)らがおり、同派以外にはルイ・マル、アラン・レネ、ロジェ・バディム、アニエス・バルダらがいて、文学的・演劇的フランス映画の伝統に新風を吹き込んだ。
[岩本憲児]
『佐藤忠男著『ヌーベルバーグ以後――自由をめざす映画』(1971・中央公論社)』▽『飯島正著『ヌーヴェル・ヴァーグの映画体系』全3巻(1980~1984・冬樹社)』▽『遠山純生編『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』(2010・紀伊國屋書店)』
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(宮本治雄 映画ライター / 2007年)
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…その意味で最初の真のアバンギャルド映画作家はメリエスであり,次いでグリフィス,そしてフィヤード,ガンス,シュトロハイムであるとし,これら商業映画を作る以外の何ものもめざさなかった監督たちが今日の映画にもたらしたものはブニュエルやリヒターよりも少ないだろうかと喝破した。この主張がのちにフランスのヌーベル・バーグの基礎となったことは,ヌーベル・バーグの映画批評誌《カイエ・デュ・シネマ》がアバンギャルドとの対比を明確にするためにヌーベル・バーグを〈ヌーベル・ギャルド〉と呼んだことからも明らかである。また,たとえばルットマンがフリッツ・ラング監督《ニーベルンゲン第2部》(1922)の夢のシーンを,ダリがハリウッドでヒッチコックの《白い恐怖》(1945)の夢のシーンをそれぞれデザインし,またレジェがイギリスでW.C.メンジース監督のSF映画《来るべき世界》(1936)の衣装デザインを担当するなど,劇場用商業映画へのアバンギャルド作家の参加の例もあり,商業映画と広義のアバンギャルド映画を映画史の上で本質的に区分することは結局のところ困難といえよう。…
…1946年に9歳で死亡した長男ロマーノにささげられ,冒頭に,イデオロギーというものは人間生活の基礎を形成する道徳とキリスト教の愛の永遠の戒律から逸脱すれば狂気となるにちがいない,という意味のエピグラフ・タイトルがあるとおり,廃墟と化した第2次世界大戦直後のベルリンを舞台に,ナチのイデオロギーの〈背徳的〉影響を受けた15歳の少年が,病弱な父を毒殺したあげく自殺するいきさつを描く。 だが,敗戦直後のベルリンの社会的現実をとらえ,〈ファシズムの社会的根源〉をさぐろうとしたこの〈抒情的ルポルタージュ〉は失敗に終わり,興行的にも成功せず,以後ロッセリーニは〈ネオレアリズモ〉に背を向けたといわれているが,フランスの〈ヌーベル・バーグ〉への影響は大きく,とくにフランソワ・トリュフォー監督の《大人は判ってくれない》(1959)は,トリュフォー自身も認めるように,《ドイツ零年》のもっとも直接的な血を引く作品である。【柏倉 昌美】。…
…58年,ジャン・ルノアール監督の《黄金の馬車(ル・キャロッス・ドール)》から名まえをとった映画製作会社レ・フィルム・デュ・キャロッスを興し,短編《あこがれ》を発表(以後,作品はすべてこの自分の会社によって製作し,作家の独立性を守った)。つづく《大人は判ってくれない》はカンヌでグランプリを受賞し,同じ年に監督デビューしたジャン・リュック・ゴダール,クロード・シャブロルらと並んで〈ヌーベル・バーグの旗手〉と騒がれた。第3作の《突然炎のごとく》で国際的な名監督という評価が定まり,以後はほぼ1年に1作のペースで作品をつくりつづけ,批評家時代に主張した〈作家の映画〉をみずから実践し〈フランス映画の中でももっとも人間的な共感を感じさせる監督の一人〉となった。…
… ヒッチコックを世界最高の映画監督と評価し,ヒッチコック映画の神髄を究明した名著《映画術 ヒッチコック/トリュフォー》(1966)を出したフランスの映画監督フランソワ・トリュフォーによれば,〈ヒッチコック映画〉には《疑惑の影》(1943),《舞台恐怖症》(1950),《ダイヤルMを廻せ!》(1954),《サイコ》(1960)など殺人犯の末路を描いた系列と,《三十九夜》(1935),《私は告白する》(1952),《間違えられた男》(1957),《北北西に進路を取れ》(1959)など無実の罪で追われる人間の苦闘を描いた系列があり,そのほか《裏窓》(1954),《めまい》(1958),《鳥》(1963)などによって,それまで二流の映画のジャンルとみなされていたスリラー映画を〈もっとも映画的な〉ジャンルとしての高みにまでもち上げた。フランスの〈ヌーベル・バーグ〉世代にはとくに大きな影響をあたえたことは,トリュフォーをはじめクロード・シャブロルやエリック・ロメールといった監督が何よりもまずヒッチコック研究家であったことからもうかがえる。《ファミリー・プロット》(1976)を最後に53本の劇場用長編映画を残し,またテレビ映画シリーズ《ヒッチコック劇場》(1955‐62),《ヒッチコック・サスペンス》(1962‐65)も知られている。…
※「ヌーベルバーグ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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