ブラジル南東部のリオ・デ・ジャネイロ州の州都で,大西洋に臨むブラジル第2の都市。単に〈リオ〉と呼ばれることも多い。1763年から1960年まで首都の地位にあった。人口614万(2005)。年平均気温22~24℃(最高36.7℃,最低14.9℃)。年間降水量1500~2500mm。平均湿度77%。花コウ岩や結晶片麻岩の大岩塊が諸所に突出し,浸食や風化によって奇怪な山容を呈するパン・デ・アスーカル,コルコバードなどの岩山と対照的に,グアナバラ湾は面積400km2,周囲143kmの大きな入江で,1502年1月1日最初に発見したポルトガル人は川と誤認し,リオ・デ・ジャネイロ(1月の川)と名づけた。国際空港をもつ面積30km2のゴベルナドール島,観光地パケター島をはじめ113の島が湾内にある。出口近くに近年リオ・ニテロイ橋がつくられた。コパカバーナ,イパネマなど世界的に有名な海岸も多い。
16世紀前半フランス人がグアナバラ湾の入口近くに植民地のフランス・アンタルクティクFrance Antarctiqueをつくった。ポルトガル人とフランス人の間の抗争は,インディオ諸種族間の紛争を巻きこんで沿岸地帯を舞台にくりひろげられた。1565年サルバドルのポルトガル総督府は艦隊を派遣してフランス人の植民地を陥落させ,リオ・デ・ジャネイロを建設した。しかし16,17世紀を通じてこの町はあまり目だたない集落にすぎなかった。糖業の中心地レシフェとサルバドルが最も重要な都市であった。17世紀末にミナス地方に金が発見されると,リオ・デ・ジャネイロ港は金の輸出,移民とヨーロッパ産品の受入れを担当して,繁栄しはじめる。また,軍事的にも,ブエノス・アイレスを拠点とするラ・プラタ川流域のスペイン人の勢力に対抗して,ブラジル植民地南部を防衛する拠点としてリオ・デ・ジャネイロの重要性が明らかになり,1763年サルバドルに代わってブラジル植民地の主都とされ,副王が着任した。そして18世紀を通じて,ブラジル植民地の政治,経済,文化の中心となった。1807年末,本国ポルトガルはナポレオンのフランス軍に攻撃され,王室はイギリス艦隊に守られてブラジルに亡命した。08年1月リオ市はポルトガル・ブラジル帝国の首都となり,実質的に植民地の地位を脱却,さらに22年ブラジルの独立とともに,新生ブラジル帝国の首都となった。王室とともに渡来した約1万5000人のポルトガルの貴族と官僚の大部分は,独立時とペドロ1世の退位時(1830)の2度にわたり帰国したが,彼らの滞在が首都の建築や生活様式に与えた影響は大きかった。帝政期(1822-89)を通じて,リオ市は集権国家ブラジルの首都,宮廷所在地として繁栄した。共和革命(1889)後,ブラジルは1891年憲法により連邦制を採用し,リオ・デ・ジャネイロは連邦区グアナバラ州となった。この状況は,1960年クビチェク大統領が首都をブラジリアに移すまで続いた。
20世紀初頭ロドリゲス・アルベス大統領の時代に,建築家ペレイラ・パソスPereira Passosの構想により,フランス的都市計画(主要地区を結ぶ道路建設,貧民街の市外移転,中心地の美化)が実行された。この事業は,全国的な政治的安定と輸出経済の好況に支えられて行われた。ペレイラ・パソスは,パリに留学し,パリ・コミューン後に行われたハウスマンによる都市改造を観察してきた。1900年に65万であった首都リオ市の人口は,40年には180万,60年には330万と急増したが,人口増のかなりの部分は,国内移住(とくに北東部から)によるもので,移住者の多くは市内の岩山の斜面や近郊の貧民街ファベーラに落ち着いている。
ブラジリアへの遷都後も,リオ市はブラジルの政治,文化,経済の中心,国際的な観光地として繁栄している。官庁の重要部局,公共機関,民間金融機関などの多くがここを本拠地としている。リオ市の最も重要な経済活動は工業で,サン・パウロに次ぐ集中を示し,化学,薬品,食品,繊維,印刷・出版,セメント,鉄鋼,ゴム,造船などの業種が重要である。日系のイシブラス(石川島播磨)造船所は,企業内技術訓練においてもすぐれた成果をあげている。リオ市はまた商業・流通・金融のセンターでもあり,文化・出版・情報・教育においても,サン・パウロ市と並ぶ中心都市である。パライバ渓谷に沿うドゥトラ街道,中央鉄道,航空路などによって,リオとサン・パウロの二大都市は緊密に結ばれ,将来はメガロポリス地帯に発展する可能性もある。
リオ市は独特の自然美と伝統とに支えられ,世界的な観光都市となっている。
(1)イパネマ海岸Praia de Ipanema 市南東部の大西洋に面する全長2.2kmの海岸。周辺に高級アパートが多く,A.C.ジョビン作曲の《イパネマの娘》でも知られる観光地で,植物園に近く,コルコバードの丘を遠望できる。
(2)コパカバーナCopacabana 市南東部,大西洋に面する全長4.5kmの海岸とその周辺地区で,高級アパート,ホテル,歓楽施設が集中し,観光・保養地として知られる。長く湾曲した砂浜沿いのアトランティカ通りの内側に,モザイク模様で飾られた幅広い歩道があり,カフェテラスが多い。パン・デ・アスーカル山とコルコバード山というリオの二大景観を望むことができる。
(3)コルコバード山Morro do Corcovado カリオカ山脈ティジュカ山塊の中の標高710mの岩山。自動車道路か登山電車で登ることができる頂上には,高さ30mの白亜のキリスト像が両手を広げ,ポルトガルを向いて立つ。周辺はティジュカ国立公園の原生林である。
(4)パン・デ・アスーカル山Pão de Açúcar 市内の岩山。〈砂糖菓子〉の意。グアナバラ湾口の小さな半島をなし,最高地点(335m)までロープウェーで登ることができる。火山活動によってできた奇妙な形の岩塊で,リオを代表する景観の一つ。
執筆者:山田 睦男
ブラジル南東部の州。州都リオ・デ・ジャネイロ市。面積は4万4083km2で,全国土の0.52%にすぎないが,同国の総人口の約8.5%にあたる1439万人(2000)が集住する。南西から北東に走る海岸山脈によって,州域は大西洋沿岸とパライバ川流域に二分される。西部イタティアイア山脈の中のアグリャス・ネグラス山(2787m)は,州内の最高地点である。海岸線は705kmに及ぶ。パライバ川は,サン・パウロ州のボカイナに源をもち,サン・ジョアン・ダ・バラまで1100kmを流れ,多くの都市に上下水,工業用水,電力を供給している。海岸から山地までという多様な自然条件にもかかわらず,概して気候は良好である。ペトロポリスやテレゾポリスなどの避暑地では,平均気温17~18℃,湿度78~82%。
リオ・デ・ジャネイロ市を中心とする工業は,全国でサン・パウロに次ぐ重要性をもつ。とくに,化学,薬品,食品,繊維,印刷・出版,セメント,鉄鋼,タイヤ,チューブなどの部門が発展している。豊富な熟練労働力と消費市場の存在,農村部や外国からの原材料供給,電力供給などが工業発展の要因となっている。農業は,パライバ川流域を中心とする54万5000haの耕地で行われる。ここは19世紀帝政時代のコーヒー生産の中心地であった。商業は,港市リオ・デ・ジャネイロ市を拠点として,サン・パウロ市に次ぐ発展を示している。1960年まで首都であったリオ・デ・ジャネイロ市が現在でも多くの官庁,企業をもち,また多数の観光客を迎えているため,金融業,サービス業も発展している。
執筆者:山田 睦男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ブラジル南東部の大西洋岸に位置する都市。略称リオ。深く湾入したグアナバラ湾の入口西岸にあり、美しい景観とカーニバルの祭りで知られる南アメリカ第一級の観光都市である。西方約430キロメートルにあるサン・パウロに次ぐブラジル第二の経済中心地でもある。世界三大美港の一つに数えられる良港をもち、歴史的には、砂糖、金、コーヒーの輸出港として発展してきた。リオ・デ・ジャネイロという名は、ポルトガル語で「1月の川」の意味で、1502年1月1日、アメリゴ・ベスプッチらが川のように狭いグアナバラ湾を発見したことにちなんでいる。ほぼ南回帰線上に位置し、年平均気温23.8℃、年平均降水量1168.9ミリメートルで顕著な乾期がない湿潤熱帯気候下にある。人口585万7904(2000)はブラジル第2位、ほとんどひと続きの市街地をなすノバ・イグアス、ドゥケ・デ・カシアスや、グアナバラ湾をまたぐ長さ14キロメートルの橋で結ばれているニテロイ、サン・ゴンサロなどの周辺13の都市をあわせた大都市圏の人口は約1000万人である。1960年まではブラジルの首都であったが、ブラジリアに首都が移された現在はリオ・デ・ジャネイロ州(面積4万3909.7平方キロメートル、1996。人口1439万1282、2000)の州都である。
産業、経済中心の業務都市的性格が強いサン・パウロに対し、リオ・デ・ジャネイロはブラジル文化を象徴する都市であり、観光の中心地である。市内には国立、州立二つのリオ・デ・ジャネイロ大学をはじめ六つの大学があり、国立博物館(科学博物館)、国立歴史博物館など多数の文化施設がある。かつて20万人を収容したマラカナン・スタジアム(2002年現在収容人員10万)は世界最大規模のサッカー競技場である。毎年2月中・下旬か3月初めに行われるカーニバルは華やかで情熱的な祭りとして有名で、街頭では市内各地区のサンバ学校対抗の仮装行進コンクールが、高級クラブでは仮装舞踏会が催されるなど、市内は4日間サンバのリズムに包まれる。
市街地は大小多数の丘や岩峰の間の海岸低地を埋め尽くすように広がっており、中央地区、北部地区、南部地区に三分される。港や国内空港に接する中央地区は一般会社、銀行、官庁、商店などが密集した地区で、近代的高層ビルが林立し、その間に旧市街地や歴史的建造物が混在している。北部地区はグアナバラ湾西岸から内陸にかけての一帯で、湾岸の工業地帯には食品、石油化学、繊維、金属関係などの工場が立地し、内陸へは一般住宅が無秩序に拡大している。南部地区は、中央地区に接するフラメンゴ、ボタフォーゴなど古い市街地の趣(おもむき)を残す部分と、大西洋に直接臨む海岸低地に中・高層のアパートやホテルがぎっしりと並ぶ新市街地とからなる中・高級住宅地区である。おもな観光施設もこの地区に集中している。パン・デ・アスーカルの岩峰(標高395メートル)や頂上に巨大なキリスト像が立つコルコバードの丘(704メートル)、植物園、ヨット・ハーバーなどがあり、レーメ、コパカバーナ、イパネマ、レブロンなどの美しい海水浴場は、リオ市民(カリオカとよばれる)や観光客でにぎわっている。南部地区の背後に横たわるカリオカ山脈は豊かな熱帯林に覆われており、その中心部3300ヘクタールはティジュカ国立公園に指定されている。南部地区の新興高級住宅地は海岸に沿って年々西方へ拡大しつつあり、近年ではティジュカ海岸地区の発展が著しい。このような美しい町並みや自然とは対照的に、市内各所の丘の斜面にファベーラとよばれるスラム街が散在し、住民の貧富の差の大きさを象徴している。このほか、大気汚染、慢性的交通渋滞、降雨時の排水不良による浸水、治安不良などの多くの都市問題を抱えている。
[松本栄次]
1555年、フランス人がグアナバラ湾内に入植したことに対抗して、1565年同湾の入口近くにポルトガル人の入植地がつくられ、2年後にフランス人は撃退された。1693年内陸のミナス・ジェライスで金が発見されると、リオ・デ・ジャネイロはその外港として重要性を増し、1763年サルバドルにかわってブラジル植民地の首府となった。ブラジル南部をラ・プラタ地方のスペイン人に対して効果的に防衛するため、良港が必要とされたからであった。1808年、ナポレオン軍に追われたポルトガル王室がリオ・デ・ジャネイロに遷都し、ただちに友好諸国に貿易を認め、実質的にブラジルは植民地でなくなった。ブラジルの独立(1822)後は首都として、全国の政治、経済、文化の中心地として繁栄した。1930年以後はサン・パウロに工業中心地の地位を奪われ、1960年新都市ブラジリアに首都の座を譲った。
[山田睦男]
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独立以来1960年までブラジルの首都だった大都会。1720年ブラジル副王領の首都となり,ポルトガル王室がナポレオン戦争の難を避けてポルトガル・ブラジル帝国をつくったときにも首都となった。20世紀になって,オスマンに学んだペレイラ・パソスのフランス式都市改造が行われ美しくなったが,都市の膨張とともに貧民街が増大している。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…【渡辺 真治】
[ブラジル]
1693年ミナス地方で金が発見されると,植民地各地とポルトガルから多くの人が殺到し,ポルトガル王室は沿岸部の荒廃を憂慮し,移動を制限しようとした。ミナス地方では,オウロ・プレト,ピタングイなど多くの金鉱集落が開発されたので,外港リオ・デ・ジャネイロに通ずる〈新道〉が1705年に開通し,リオ・デ・ジャネイロが後に植民地の中心都市となる契機となった。08年には,利権をめぐる騒乱(エンボアバスの戦)が起きた。…
※「リオデジャネイロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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