オルメルト(読み)おるめると(英語表記)Ehud Olmert

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オルメルト」の意味・わかりやすい解説

オルメルト
おるめると
Ehud Olmert
(1945― )

イスラエルの政治家。2006年1月、当時の首相アリエル・シャロン脳卒中重体となったため、同首相が結成した中道政党カディマの後継指導者となる。2006年3月の総選挙で同党が第1党になり、5月に第12代イスラエル首相に就任した。首相就任後は、同年夏に起きたレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボッラーとの戦闘で、対応が不適切だったと与野党から非難を受けた。2008年に汚職疑惑により辞表を提出し、2009年3月ネタニヤフ政権の発足に伴い退任した。

 イスラエル建国前のイギリス委任統治領パレスチナで生まれる。第一次世界大戦後にソ連から中国のハルビンを経由してパレスチナに移住したユダヤ人の家系。父モルデハイは青少年期をハルビンで過ごし、オルメルトの回想によると「臨終の床で発したのも中国語だった」という。

 エルサレムのヘブライ大学卒業(専攻は法学など)。在学中から、右派政党リクード前身である「へルート」の青年組織に所属し、1973年、28歳の若さでクネセト(国会)議員となった。保健相などを務めた後、1993年のエルサレム市長選で、28年間市長を務めた現職テディ・コレックを破り、建国後初めて、エルサレム市政の右派支配を実現した。2003年にふたたびクネセト議員となり、リクード党のシャロン首相のもとで産業貿易相、副首相を務める。ユダヤ人入植地の撤去を決めたシャロン首相にリクード右派が反発し、同首相が2005年11月、リクードを離党して中道新党のカディマを結成した際は、行動をともにした。なお、1973年の第四次中東戦争の際も軍機関誌の特派員としてシャロンの率いる師団に従軍し、起居をともにしている。

[宮明 敬]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オルメルト」の意味・わかりやすい解説

オルメルト
Olmert, Ehud

[生]1945.9.30. イギリス領パレスチナ,ビンヤミナ近郊
イスラエルの政治家。首相(在任 2006~09)。両親はイスラエル建国のために闘った地下軍事組織イルグン・ツバイ・レウミの活動家だった。1950年代半ばから 1960年代初めにかけて,父のモルデカイはイスラエル国会(クネセト)でリクードの前身である右翼政党ヘルートの議員だった。エルサレムのヘブライ大学で学び,1968年に心理学と哲学の学士号,1973年には法学修士号を取得。1973年,メナヘム・ベギン率いるリクードからクネセト議員選挙に立候補して当選し,イスラエル最年少の国会議員となる。1988年無任所大臣,イスラエル・アラブ問題担当大臣に任命され,1990年に保健大臣に就任した。1993年に国政を離れてエルサレム市長選挙に立候補し,6期務めた現職のテディ・コレクを破って当選した。2003年,アリエル・シャロン首相に国政に呼び戻され,副首相兼通商産業大臣に任命された。2006年1月,シャロンが脳卒中で倒れて職務遂行不能になったあと首相代行を務める。2006年3月,シャロンが 2005年にリクードを離脱して結成した中道政党カディマを勝利導き連立内閣を組閣後,正式に首相に任命された。2008年7月,同年秋に予定されていた党首選挙後の辞任を宣言し,約束どおり正式に辞任した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android