ベギン(読み)べぎん(英語表記)Menahem Begin

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベギン」の意味・わかりやすい解説

ベギン
べぎん
Menahem Begin
(1913―1992)

イスラエル政治家。当時ロシア領であったブレスト・リトフスク(現、ベラルーシ領のブレスト)生まれ。ワルシャワ大学法学部卒業。早くからシオニズム運動に参加し、1942年パレスチナに移住。1943年以来非合法地下軍事組織イルグンを指揮し、イギリスの委任統治武力で抵抗。1948年ヘルート党を結成し、その総裁となる。第三次中東戦争後1970年まで挙国一致内閣の無任所相として入閣した以外は、絶えず右翼の野党指導者として活躍。1973年右翼連合リクードを結成し、1977年6月首相就任した。1978年キャンプ・デービッド協定の調印に踏み切ったのち、1979年エジプトと平和条約を締結し、エジプトとの長い戦争状態を終結させた。1978年エジプトのサダトとともにノーベル平和賞を受賞。1983年首相辞任。

[伊能武次]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベギン」の意味・わかりやすい解説

ベギン
Begin, Menahem

[生]1913.8.16. ブレストリトフスク
[没]1992.3.9. テルアビブ
イスラエルの政治家。 1936年ポーランドで修正派のシオニズム運動の活動家となる。第2次世界大戦中ソ連によりスパイ容疑で逮捕され,一時シベリアで抑留生活をおくる。 42年パレスチナに移住し,ユダヤ人移住を制限していたイギリス委任統治に反抗する地下軍事組織イルグン・ツバイ・レウミの指揮官となり,反英テロ活動を展開。 48年イスラエル独立直後に右翼政党へルートを結成,トランスヨルダンをも含めた歴史上のパレスチナ全部がイスラエルのものだという「大イスラエル主義」の主張を掲げる。 73年,右翼連合リクードを結成し,党首となる。 77年5月の総選挙でリクードが第一党となり,首相に就任。「ヨルダン川西岸もガザも本来ユダヤ人のもので,占領地ではなく解放地だ」として,占領地へのユダヤ人入植地の建設を促進。 78年9月のキャンプデービッド合意により,エジプトのサダト大統領とともにノーベル平和賞を受賞。 79年3月エジプトとの平和条約を成立させる。 81年ゴラン高原を併合。 82年6月のレバノン侵攻後,パレスチナ人虐殺事件で国内外から批判を浴びて苦境に立つ。首相就任以来,3回心臓発作に見舞われるなど健康問題もあり,83年9月首相を辞任し,政界から引退。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ベギン」の解説

ベギン
Menahem Begin

1913〜92
イスラエルの政治家・首相(在任1977〜83)
ポーランドに生まれる。シオニズム運動に参加して1942年パレスチナに移住。1973年右翼連合リクードを結成し,77〜83年首相に就任。1978年エジプトとキャンプ−デーヴィッド合意を行い,翌年平和条約を締結した。このエジプトとの戦争状態の終結により,1978年サダトとともにノーベル平和賞を受賞した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ベギン」の解説

ベギン
beguina

12世紀後半に低地地方(オランダ,ベルギーなど)に出現し,その後,西欧の諸都市に広がった敬虔な生活を営む女性のこと。彼女らは数人から数十人の単位で共同で家に住み,昼間は都市内で働き,修道女のような生活を行った。ベギンからは神秘主義的な異端者も多く出たので,中世後期には教会からその運動に対してさまざまな統制が加えられた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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