コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

お由良騒動 オユラソウドウ

デジタル大辞泉の解説

おゆら‐そうどう〔‐サウドウ〕【お由良騒動】

江戸後期、薩摩藩主島津斉興(しまづなりおき)の継嗣をめぐって起きたお家騒動。斉興の長子斉彬(なりあきら)派と、愛妾(あいしょう)お由良の子久光派が対立したが、斉興の引退により斉彬が跡を継いで落着した。高崎崩れ。嘉永朋党事件

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

大辞林 第三版の解説

おゆらそうどう【お由良騒動】

江戸末期、薩摩藩主の襲封をめぐり、藩主島津斉興なりおきの長男斉彬なりあきら擁立派と妾由良の子久光擁立派が争った御家騒動。斉彬派が多数処罰されたが、西郷隆盛・大久保利通らの尽力、老中阿部正弘の手による斉興の引退により、斉彬が襲封。高崎崩れ。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

お由良騒動
おゆらそうどう

高崎崩れ」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

お由良騒動
おゆらそうどう

江戸時代末期、鹿児島(薩摩(さつま))藩のお家騒動。嘉永朋党(かえいほうとう)事件、近藤(こんどう)崩れ、高崎(たかさき)崩れともいう。藩主就任をめぐる島津斉彬(しまづなりあきら)派と久光(ひさみつ)派の抗争。 藩財政立て直しのため、10代藩主、斉興(なりおき)と斉興を後見していた元藩主重豪(しげひで)(8代)は1828年(文政11)、調所広郷(ずしょひろさと)を財政改革主任(後に家老)に抜擢(ばってき)、調所は財政改革に成功したが、1847年(弘化4)軍制改革、給地高改正で藩士の猛反発を受けた。かねて斉興に不満だった斉興の世子斉彬は、幕府老中阿部正弘(あべまさひろ)の命を受けて鹿児島に入り、調所排斥に踏み切った。一方、斉興と調所は、洋式軍制を信奉する斉彬の財政策を認めず、その藩主就任を危惧(きぐ)していた。また、斉興側室のお由良(久光の母)は、久光の藩主就任を目ざし調所派と連携した。斉彬の藩主就任を望んだ阿部が、密貿易の発覚を根拠に斉興の引退を求めると、1848年調所は密貿易の責任を取り服毒自殺した。1848年、49年(嘉永1、2)斉彬の子が相次ぎ没し、これをお由良の呪詛調伏(じゅそちょうぶく)と信じた斉彬派は、怒ってお由良らの暗殺を企てた。これが発覚し、1849年町奉行(まちぶぎょう)近藤隆佐衛門、鉄砲奉行山田清安、船奉行高崎五郎右衛門らが首謀者として切腹させられ、翌年には遺体が掘り返されて磔刑(たっけい)、鋸刑(きょけい)(鋸(のこぎり)びきの刑)にされるなど、あわせて30人が切腹、遠島の処分を受けた。脱藩者の通報を受けた幕府によって斉興は隠居させられ、1851年(嘉永4)斉彬が11代藩主に就任した。犠牲は少なくなかったが、藩は人事を刷新し、斉彬と久光は信頼関係を回復、幕末維新で活動する人材を得ることになった。 [三木 靖]
『『鹿児島県史資料 斉彬公史料 全4巻』(1980~83・鹿児島県) ▽芳即正著『人物叢書 調所広郷』(1987・吉川弘文館) ▽芳即正著『人物叢書 島津斉彬』(1993・吉川弘文館) ▽原口虎雄著『幕末の薩摩――悲劇の改革者、調所笑左衛門』(中公新書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

お由良騒動の関連キーワード南国太平記西郷隆盛御家騒動島津斉彬島津久光襲封

今日のキーワード

やおら

[副]1 ゆっくりと動作を起こすさま。おもむろに。「やおら立ち上がる」2 静かに。そっと。「姫君、御硯(すずり)を―引き寄せて」〈源・橋姫〉[補説]文化庁が発表した平成18年度「国語に関する世論調査」...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android