江戸時代末期、鹿児島(薩摩(さつま))藩のお家騒動。嘉永朋党(かえいほうとう)事件、近藤(こんどう)崩れ、高崎(たかさき)崩れともいう。藩主就任をめぐる島津斉彬(しまづなりあきら)派と久光(ひさみつ)派の抗争。藩財政立て直しのため、10代藩主、斉興(なりおき)と斉興を後見していた元藩主重豪(しげひで)(8代)は1828年(文政11)、調所広郷(ずしょひろさと)を財政改革主任(後に家老)に抜擢(ばってき)、調所は財政改革に成功したが、1847年(弘化4)軍制改革、給地高改正で藩士の猛反発を受けた。かねて斉興に不満だった斉興の世子斉彬は、幕府老中阿部正弘(あべまさひろ)の命を受けて鹿児島に入り、調所排斥に踏み切った。一方、斉興と調所は、洋式軍制を信奉する斉彬の財政策を認めず、その藩主就任を危惧(きぐ)していた。また、斉興側室のお由良(久光の母)は、久光の藩主就任を目ざし調所派と連携した。斉彬の藩主就任を望んだ阿部が、密貿易の発覚を根拠に斉興の引退を求めると、1848年調所は密貿易の責任を取り服毒自殺した。1848年、1849年(嘉永1、2)斉彬の子が相次ぎ没し、これをお由良の呪詛調伏(じゅそちょうぶく)と信じた斉彬派は、怒ってお由良らの暗殺を企てた。これが発覚し、1849年町奉行(まちぶぎょう)近藤隆佐衛門、鉄砲奉行山田清安、船奉行高崎五郎右衛門らが首謀者として切腹させられ、翌年には遺体が掘り返されて磔刑(たっけい)、鋸刑(きょけい)(鋸(のこぎり)びきの刑)にされるなど、あわせて30人が切腹、遠島の処分を受けた。脱藩者の通報を受けた幕府によって斉興は隠居させられ、1851年(嘉永4)斉彬が11代藩主に就任した。犠牲は少なくなかったが、藩は人事を刷新し、斉彬と久光は信頼関係を回復、幕末維新で活動する人材を得ることになった。
[三木 靖]
『『鹿児島県史資料 斉彬公史料 全4巻』(1980~83・鹿児島県)』▽『芳即正著『人物叢書 調所広郷』(1987・吉川弘文館)』▽『芳即正著『人物叢書 島津斉彬』(1993・吉川弘文館)』▽『原口虎雄著『幕末の薩摩――悲劇の改革者、調所笑左衛門』(中公新書)』
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