調所広郷(読み)ズショヒロサト

デジタル大辞泉 「調所広郷」の意味・読み・例文・類語

ずしょ‐ひろさと【調所広郷】

[1776~1849]江戸後期の薩摩さつま家老島津重豪しまづしげひで斉興なりおきに仕えて藩の財政再建したが、密貿易幕府に発覚して自殺

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精選版 日本国語大辞典 「調所広郷」の意味・読み・例文・類語

ずしょ‐ひろさと【調所広郷】

  1. 江戸後期の薩摩藩の家老。通称笑左衛門。島津重豪(しげひで)付御側御用人となり、文政一〇年(一八二七)藩財政の改革に着手。国内産物の専売藩債の強制などで財政を再建したが、密貿易が発覚し、責任を負って自殺した。安永五~嘉永元年(一七七六‐一八四八

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百科事典マイペディア 「調所広郷」の意味・わかりやすい解説

調所広郷【ずしょひろさと】

江戸後期の薩摩(さつま)鹿児島藩士。通称笑左衛門(しょうざえもん)。使番町奉行を経て1825年側用人,1833年家老となる。この間その手腕を認められ,藩主島津重豪(しげひで)より500万両の負債をかかえた藩財政の改革を命じられた。1835年,三都藩債年賦償還法を定め江戸・大坂・京都の商人からの借金は元金1000両につき毎年4両ずつ,無利子250年賦償還とした。一方,経済学者佐藤信淵らの意見をきき,出雲屋孫兵衛ら経済専門家を配下に集め,黒糖の専売制を実施し,ナタネ・薬種・生蝋などを増産させ,あらゆる国産物を専売制とした。彼が指導にあたった20年間で藩庫に100万両のたくわえをつくり財政改革に成功した。しかし琉球国を利用した中国との密貿易も敢行,この密貿易発覚の責任を負って12月18日江戸桜田藩邸において自殺した。彼の藩政改革はのちの鹿児島藩維新運動のエネルギーとなった。
→関連項目お由羅騒動天保改革藩政改革

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「調所広郷」の意味・わかりやすい解説

調所広郷
ずしょひろさと
(1776―1848)

江戸後期の薩摩(さつま)藩家老。安永(あんえい)5年2月5日、鹿児島城下の下級武士川崎家に生まれ、のち調所家の養子となった。幼名良八、のち笑悦(しょうえつ)、笑左衛門と改めた。前藩主島津重豪(しげひで)付きの茶坊主となったことからそのお気に入りとなり、累進して御側用人(おそばようにん)となった。薩摩藩では重豪の隠居後急速に藩債が増加して、文政(ぶんせい)(1818~30)の末には500万両の巨額に達した。1827年(文政10)調所はその財政改革主任を命ぜられ、以来死力を尽くして改革にあたった。顕著な方策としてまず奄美(あまみ)大島、徳之島、喜界(きかい)島三島の砂糖専売政策をとり、三島砂糖の売買を厳禁し、違反者は死刑などの極刑に処し、上納後の余分の黒糖についても島民の日用品と交換する仕組みで、それを大坂市場価格の4分の1ぐらいで引き取った。また藩債500万両を年2万両ずつ返済する藩債250年賦償還法をとり、さらに米、菜種その他の国産品改良や密貿易などで利益をあげた。こうしてついにみごと財政改革に成功、天保(てんぽう)(1830~44)末期には藩庫備蓄金50万両のほか、諸営繕費用200万両余に達したという。財政改革の功により家老となり、開明派の世子斉彬(なりあきら)と対立したが、幕府より密貿易の嫌疑を受け、嘉永(かえい)元年12月18日急死、自殺という。

[芳 即正]

『原口虎雄著『幕末の薩摩』(中公新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「調所広郷」の意味・わかりやすい解説

調所広郷 (ずしょひろさと)
生没年:1776-1848(安永5-嘉永1)

江戸後期,薩摩藩の財政担当者。通称笑左衛門。茶坊主より昇進して1833年(天保4)家老となる。1830年島津重豪(しげひで)より,破局財政再建のため,(1)以後10年間に50万両の貯蓄,(2)50万両のほかに平時ならびに非常時の手当金の貯蓄,(3)500万両の古借証文の回収を命ぜられる。まず経済学者佐藤信淵の意見を聞き,また出雲屋孫兵衛ら経済専門家を配下に集めて着手した。改革の主柱としたのは大島,徳之島,喜界島3島の黒糖の総専売であり,ハゼ蠟,コウゾ,ナタネ,ウコン等の諸国産の開発専売を強行した。36-38年には大坂,江戸の借用証文を取り上げ,250年賦無利子払いに切り替えた。また偽金の密造や琉球国利用の中国密貿易をも敢行したが,露見した密貿易の責任を負って服毒自殺した。

 主命の3目標達成はもちろん,改革の20年間に道路,河川,橋梁,新田,社寺,藩邸等の営繕に200万両を注いだ。彼の生命をかけた藩政改革は,後の薩摩藩維新運動のエネルギーとなった。
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朝日日本歴史人物事典 「調所広郷」の解説

調所広郷

没年:嘉永1.12.18(1849.1.12)
生年:安永5.2.5(1776.3.24)
江戸後期の薩摩(鹿児島)藩の財政家。幼名は良八,清八,友治,通称は笑悦,笑左衛門。川崎主右衛門の次男に生まれ,調所清悦の養子となった。寛政10(1798)年に江戸で藩主島津斉宣の奥茶道方となり,隠居の前藩主重豪の側に仕えて笑悦と称した。文化8(1811)年に茶道頭,同10年に小納戸勤めとなり,蓄髪して笑左衛門と改名した。重豪および斉興の2代の藩主の信任があつく,文政5(1822)年に町奉行,同7年に側用人格と昇進し,同11年には藩財政改革主任を命ぜられ500万両にのぼる藩債の整理に当たった。佐藤信淵の助言を受けて藩営藍玉製造を始め,また奄美大島など三島の砂糖を専売とし,さらには琉球を通して官許貿易および密貿易をさかんに行うなどして莫大な利益をあげた。大坂・京都の銀主に対しては天保6(1835)年に藩債250年賦償還仕法を実施して,債務整理を強行した。こうした調所の果断なやり方によって同11年には藩庫に金50万両の蓄えができ,その役職も大番頭をへて大目付格,家老格へと昇進した。しかし,そののち密貿易の件が幕府の探索を受けたことから,責任をとって嘉永1(1848)年に江戸薩摩邸で自尽した。<参考文献>芳即正『調所広郷』

(笠谷和比古)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「調所広郷」の意味・わかりやすい解説

調所広郷
ずしょひろさと

[生]安永5(1776).3. 鹿児島
[没]嘉永1(1848).12.18. 江戸
江戸時代後期の薩摩藩家老。通称笑左衛門。薩摩藩士川崎主右衛門の次男で調所清悦の養子となり,藩主島津斉興の側用人となった。藩主の祖父で隠居後も藩政を指導していた島津重豪に重用され,文政年間 (1818~30) から天保年間 (30~44) にかけて藩の財政改革を推進し,重役に昇進。奄美大島や三島の砂糖など藩内産物を買上げて藩の専売とし,藩債を富豪に強制的に買わせて巨額の資金を調達して財政を立直そうとはかった。この改革によって薩摩藩の財政はとみに豊かになったが,密貿易が幕府に発覚しその責めを負って自決した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「調所広郷」の解説

調所広郷
ずしょひろさと

1776.2.5~1848.12.19

江戸後期の鹿児島藩家老。鹿児島藩士川崎基明の次男で,茶道坊主調所清悦家を継ぐ。笑悦,のちに笑左衛門と称す。側用人として島津重豪(しげひで)・同斉興の財務を担当し,1827年(文政10)には財政改革主任となり,翌年改革に着手。30年(天保元)10年間で50万両備蓄し,古借証文を回収せよとの命をうけ,三島(奄美大島・喜界島・徳之島)砂糖惣買入制を実施。藩債500万両の250年賦償還を断行し,44年(弘化元)50万両の備蓄を達成した。46年幕府から琉球交易の黙許をえ,唐物貿易を企てた。48年(嘉永元)密貿易の責を負い,服毒自殺。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「調所広郷」の解説

調所広郷 ずしょ-ひろさと

1776-1849* 江戸時代後期の武士。
安永5年2月5日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。側用人,家老となる。砂糖の総買い入れ専売制実施,藩債500万両の250年賦償還などにより藩財政を再建。琉球を通じての密貿易の責任をとって嘉永(かえい)元年12月18日自殺。73歳。本姓は川崎。通称は笑左衛門(しょうざえもん)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「調所広郷」の解説

調所広郷
ずしょひろさと

1776〜1848
江戸後期の薩摩藩家老
通称笑左衛門。薩摩藩の藩政改革の中心人物で,財政改革のために負債整理,砂糖の専売制,琉球貿易などを行って成功,幕末の薩摩藩活躍の基礎を築いた。1848(嘉永元)年密貿易の責任を問われ自殺した。

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367日誕生日大事典 「調所広郷」の解説

調所広郷 (ずしょひろさと)

生年月日:1776年2月5日
江戸時代後期の薩摩藩の財政家
1849年没

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世界大百科事典(旧版)内の調所広郷の言及

【お由羅騒動】より

…48年(嘉永1)には世子斉彬(なりあきら)は40歳の壮齢であったが,斉興は藩主の座を譲らなかった。斉興や家老調所(ずしよ)広郷の考えでは〈斉彬の世になれば曾祖父重豪(しげひで)にならって,蘭癖のため藩庫をからにするであろう〉と,藩の前途を危ぶんでいたのである。世評では,側室お由羅が調所らと結んで自分の腹の久光を立てようとしている,斉彬の7人の子女が次々と夭折したのはお由羅の呪詛によるものだと,取りざたした。…

【薩摩藩】より

… 藩財政は永年の戦争のため藩初から窮迫していたが,江戸の寛永寺や木曾川治水の御手伝普請(宝暦治水事件),たびたびの火災,島津重豪(しげひで)の積極開化政策などのため,1830年代には藩債は500万両に達し,これに対し国産の売上高は年間30万両であったから,まさに藩庫は破産していた。この藩財政をよみがえらせたのが奄美,沖縄の特産資源,ことに奄美の黒糖で,調所広郷(ずしよひろさと)の〈天保改革〉(1830‐48)は活路を黒糖の専売に求め,ほかにも諸物産の専売,密貿易,偽金づくり,500万両の踏倒しなどの周密な非常手段を用い,一転して日本一といわれるほどの富国に再生した。 国境は関所,辺路番所,津口番所で他国との接触を不自由にし,ことに奄美,沖縄は完全に他国人の目から遮断し,唐通詞を置いていた(このような二重鎖国と専売制度下の領内は自給自足のほぼ自然経済状態に保たれ,町場は未成熟であった)。…

※「調所広郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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