オーストリアの首都ウィーンにあるドイツ語圏最古の大学。ハプスブルク家ルドルフ4世により,1365年パリ大学をモデルとして創設されたが,当初は法学・医学・教養の3学部しかなかった。また財政的基盤も弱く,学生の集りは悪かった。83年アルブレヒト3世によって再興され,84年には神学部をもつ大学となった。それ以降数学や天文学の研究,人文主義の中心地として多数の学生が学んだが,大学外の権力との闘争や運営のまずさにより宗教改革の時代には衰退した。1617年にはイエズス会が大学の支配権を握った。ウィーン大学が再び盛んになるのは,18世紀の中葉以降マリア・テレジアやヨーゼフ2世の改革努力によってである。トゥーン・ホーエンシュタインLeo Thun-Hohenstein文相(在任1849-60)は研究教育体制の改革を行うとともに,多数の有能な教授を外国から招聘し,大学発展の基礎を固めた。1938年に三井高陽の寄贈によって日本学研究所(初代所長岡正雄)が設立され,民俗学,社会学を中心にした日本研究が盛んに進められている。96年現在,カトリック神学,プロテスタント神学,法学・政治学,社会・経済,医学,人文科学,自然科学などの学部をもつ。教師数約3400,学生数約7万5000。
執筆者:別府 昭郎
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オーストリアの首都ウィーンにある総合大学。1365年ルドルフ4世Rudolf Ⅳ(1339―65)により創設され、ドイツ語圏最古の大学である。設立当初の3学部(法学、医学、文学)に、1384年神学部が加えられた。パリ大学をモデルに整備されたため、典型的な中世大学として発展した。16世紀の宗教改革期に一時衰えたが、18世紀なかばには神聖ローマ女帝マリア・テレジアの教育改革により、ふたたびヨーロッパ有数の学術機関としての地位を確立した。19世紀後半には経済学におけるオーストリア学派の中心となり、続くウィーン学派はとくに医学、法学、歴史学などの分野で名声を博した。1975年の大学組織法により、運営の民主化、社会的貢献などが図られたが、伝統的な姿勢を現在もなお崩していない。1999年現在、9学部(カトリック神学、プロテスタント神学、法律学、経済・情報科学、医学、人間・社会科学、人文・文化学、自然科学、数学)からなり、教員数約3400人、学生数8万7000人となっている。
[馬越 徹]
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ドイツ語圏最古の大学。1365年にハプスブルク家のルドルフ4世がプラハのカレル大学(現在のプラハ大学)に対抗して創立した。初期は国家からの自治が認められていたが,16世紀に反宗教改革により国家の影響力が強まった。ヨーゼフ2世は大学の自治を否定し,高級官僚の養成機関とした。しかし,1848年の三月革命は大学改革を促し,67年の国家基本法(オーストリア)に反映された。その17条1項は「学問研究とその教授は自由である」と定め,のちの教授会中心の大学自治の整備に繫がった。1907年に女性に初めて博士号が授与された。2002年の大学法によって,ウィーン大学も国家から切り離され自律性を持った法人になり,それは2004年に医学部がウィーン医科大学(オーストリア)として分離独立することを可能にした。2014年にはドイツ語圏で最大規模の9万2000人以上の学生が在学し,180以上の学位プログラムを履修している。15の学部と四つのセンターを擁する。コンラート・ローレンツ(生理学・医学)など多数のノーベル賞受賞者を輩出している。
著者: 田中達也
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…神聖ローマ皇帝によるナポリ大学(1324)の創設を端緒として,スペインのサラマンカ大学(1330ころ),帝国領内のプラハ大学(カレル大学。1347),ウィーン大学(1365),クラクフのヤギエウォ大学(1364)などの大学が次々と創設された(〈創られた大学〉と呼ばれる)。 1500年ころまでに,ヨーロッパには約80の大学が成立した。…
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