人権保障と民主的政治制度を規定した憲法に基づいて行われる政治。17世紀末のイギリス名誉革命後に成立した近代国家において確立された政治運営の方式。
第一次世界大戦前のプロシア(ドイツ)や戦前の日本も憲法をもち、その意味で両国の政治は立憲政治とよばれたが、両憲法とも人権保障が十分でなく、国王や天皇に強大な大権が与えられ、議会の権限がきわめて弱かったから、政治の実態は真の意味での近代的立憲政治とはいえなかった(外見的立憲主義)。したがって、立憲政治が真に民主的なものであるためには、人権保障が憲法上明文化されていることはもちろんのこと、まず、国民主権主義を基礎にした議会が国権の最高機関としての地位を与えられ、国民に成年男女による普通・平等選挙権が保障されていること、イギリスの議院内閣制のように内閣が議会を基礎に形成され、行政の責任を議会に負う政治運営方式が確立されていること、あるいはアメリカの大統領制のように、行政府の長である大統領が国民の選挙を基礎に選出され、立法・司法・行政の間の三権分立が確立されることによって専制政治への危険性が防止されていることなどが最低の条件として要求されるであろう。戦後日本でも、人権保障と民主的政治制度が日本国憲法によって明文化されているので、立憲政治が確立されたといえよう。
[田中 浩]
憲法にもとづいて国民の権利と自由を定め,議会を設けて国民を政治に参与させる政治形態をいう。ヨーロッパを中心に強大な王権を制限するかたちで発達し,19世紀末までにはヨーロッパ諸国の大半で立憲政治が実現した。その知識は1820年代に日本に伝えられ,幕末の対外危機のなかで立憲政治採用論が芽ばえた。明治維新をへて,72年(明治5)頃から公選の議会設立案が政府部内で検討され始め,つづいて民権派の国会開設運動も始まり,欧米列強と並び立つ強国の建設を目標に立憲政治の実現への動きが進んだ。89年政府の主導による大日本帝国憲法の発布,90年の帝国議会の開設の結果,日本はアジアにおける唯一の立憲国家となった。憲法はプロイセン流君権主義をとりいれていたが,第1次大戦後には議会中心の政治運営が立憲政治の常道(憲政の常道)として定着した。第2次大戦下,軍部の台頭で立憲政治は危機に瀕したが,1947年(昭和22)日本国憲法が施行され,議会制民主主義を原理として強力に復活した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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