19世紀初期の政治的秘密結社。イタリアではCarboneria,フランスではCharbonnerieという。成立年代は確定されていないが,1806年ナポレオンのフランスが南イタリアを征服してナポリ王国を成立させた際,フランスの炭焼き職人組合(シャルボニエール)の形態が伝えられて結成されたと考えられる。当初の目的は,南イタリアにおける旧ブルボン体制を否定して自由主義的改革を進めることにあり,農村ブルジョアジー,下層聖職者,開明官僚,士官クラスの軍人などに支持された。1799年のナポリ革命のときに農民が反革命に組織された失敗を繰り返さないために,カルボナリ結社を通じて農民を結集することが課題のひとつだった。結社は通常2位階に分かれ,新入メンバーは徒弟位階に属して正義・救済・人間愛などの感情を共有することで結びつき,親方位階では政治的目標がより明確化されていた。入社や進級など結社員の結合の確認には特有の儀礼や象徴が重視され,フリーメーソン的伝統とのつながりも有していた。政治状況の進展とともに内部に諸潮流の分化が見られ,共和主義的傾向を強める動きや,イギリスの保護のもとにシチリア憲法を発布(1812)したブルボン王に期待をよせる動きがでてきた。ナポレオン体制末期のナポリ国王ミュラーの北方遠征に伴って,北・中部イタリアにもカルボナリが導入されるが,この地域では既存のブオナローティ派の秘密結社に従属することが多かった。ウィーン会議(1814-15)後,南イタリアはブルボン復古王朝のもとで両シチリア王国に編成されるが,カルボナリはこれに対して内部に穏健派と急進派の違いをふくみながらも,立憲自由主義を求める立場でほぼまとまった。1820年1月軍部のイニシアティブによるスペイン革命で憲法の復活が宣言されたことに触発されて,同年7月ナポリ近くのノラで騎兵連隊をまきこんだカルボナリ蜂起が生じ,直ちにナポリを制圧して国王にスペイン憲法と同内容の憲法(一院制議会にたつ君主制)を発布させた。革命の性格は立憲革命といえ,10月に新議会が召集されたが,オーストリアの軍事介入によって革命政府は21年3月に倒れ,憲法も廃止された。しかし,このときナポリ革命に参加していた亡命フランス人が21年初めカルボナリ結社の経験をパリにもち帰って同年5月フランスでもカルボナリが結成される。21年のピエモンテ革命の敗北に続く大弾圧でイタリアのカルボナリが衰退する一方,フランスでの組織化が進み,フランスのカルボナリが新たにウィーン体制に対する国際的自由主義運動の中心を占めるようになった。だが,フランスの場合も共和派,オルレアン派,立憲君主派,社会改革派など多様な潮流に分かれ,民衆を結集する課題もしだいに薄れていった。カルボナリは31年中部イタリア革命の担い手となるが,政治思想と組織論の両面での不備が露呈され,イタリアではこれを最後にマッツィーニの新結社〈青年イタリア〉にとって代わられる。また国際的にもブオナローティ派の秘密結社に吸収,再編されたりして30年代初めに消滅する。
執筆者:北原 敦
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19世紀前半のイタリアとフランスに存在した秘密結社。「炭焼党」と訳す。1776年にバイエルン公国で創立された「啓明」結社は、私有財産の廃止による平等な社会を目ざす革命的秘密結社であった。創立者ワイスハウプトのイタリア人協力者コスタンツォ侯爵はその後帰国し、1786年にナポリでフリーメーソンの装いの下に「啓明」結社の支部を結成した。19世紀になってこの結社に新しい組織形態と名称をもたらしたのがフランス人の旧ジャコバン党員ジョセフ・ブリオであったといわれる。彼はフランシュ・コンテのシャルボニエールという「炭焼組合」を模した秘密結社の一員で、1806年にナポリに赴任した。ブリオを通じて新しい党組織は、社会を「森」、政府とその手先を「狼(おおかみ)」、集会所を「山小屋」、支部細胞を「炭売場」、党員を「善良な従兄弟(いとこ)」とよぶようになった。こうしてカルボナリ党は10年ごろナポリの「啓明」結社を母胎に、ナポレオン体制に反発するジャコバン的共和主義者を結集する秘密結社として誕生した。党はまもなく南部一帯に広がり、ウィーン体制下ではさらに中部から北部にまで組織を広げ、とくに北部ではブオナローティの指導する秘密結社と結び付いて発展した。カルボナリ党は、1830年代初めまで反絶対主義闘争の中核勢力としてリソルジメント初期の運動を代表した。党員は経験に応じて徒弟、親方、大親方の3段階に分けられ、各位階にはそれぞれ教義があったが、農地均分法に基づく平等社会の実現を掲げた大親方の位階は、後年ブオナローティの指導を受けた組織にのみ存在した。初期の運動は、ジャコバン主義の拠点であった軍隊を中心に起こり、その実践目標は立憲政府の樹立と外敵の駆逐であった。1820年7月ナポリの党が起こした反ブルボンの反乱は南部各地に広がり、立憲革命に成功したが、翌年春オーストリア軍の介入により鎮圧された。21年春のピエモンテの革命も同様に失敗に終わり、同時にイタリア各地の専制政府は弾圧に乗り出した。危機に陥った党は本拠をパリに移したため、運動はイタリアを離れてフランスやスペインに広がった。その後ブオナローティはイタリアの運動を再組織し、31年の中部イタリア革命を準備した。しかしこの革命の鎮圧と34年のリヨン蜂起(ほうき)の失敗、青年イタリア党の発展により、カルボナリ運動は急速に衰えた。
[重岡保郎]
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…パリ生れ。1821年,ビュシェ,フロタールとともにフランス・カルボナリ党を創立。25年,サン・シモン没後,同派の《生産者》紙(1825‐26)の編集者の一人となり,以後,アンファンタン,ロドリーグらとサン・シモン主義の社会主義思想としての理論的整理,発展に貢献した。…
…パリ入市関税事務所に勤めるかたわら,哲学を学び,医学を修める。1821年バザール,フロタールとともにフランス・カルボナリ党を結成。その後,サン・シモンの思想に共鳴し,26年より《生産者》紙の編集に加わったが,29年宗教的色彩を強め,位階制を取り入れた同派と袂を分かち,独自の活動を始めた。…
…フランス支配期の市民的諸改革は後退して,各国とも旧制復古の政策がとられた。これに対して立憲自由主義の運動が秘密結社のカルボナリ党を通じて進められた。カルボナリ結社は最初南イタリアで成立したが,しだいに北イタリアにも浸透し,軍人,官吏,弁護士,医師,開明貴族など幅広い社会層の参加をみた。…
※「カルボナリ党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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