19世紀イタリアの革命家,思想家。1827年ジェノバ大学を卒業,文筆活動のかたわらカルボナリ党に加入して30年逮捕される。31年マルセイユに亡命,カルボナリに代わる新しい政治結社〈青年イタリア〉を結成して,イタリアの国家統一(リソルジメント)と共和制の実現を目ざした。この結社は,教育(出版物による宣伝)と蜂起(ゲリラ方式の反乱)を重視した活動で急速に国内に浸透したが,33-34年の弾圧で打撃を受け,彼も亡命地をスイスに移した。この間,イタリアの解放をめぐって,フランス革命を範としフランスを中心とした運動を考えるブオナローティと対立し,国民国家形成の運動にはイタリア固有の課題が含まれていることを強調した。またブオナローティの平等主義思想に対して,一種の協同社会論を唱え,国家統一運動に社会変革の課題をもちこむことに反対した。マッツィーニは37年ロンドンに移住し,一時の精神的迷いから脱して40年代に再び〈青年イタリア〉の活動を強める。今回はとくに労働者の役割に注目して,新たに〈イタリア労働者連合〉を設立した。しかし,これは労働者の階級闘争を目ざすものではなく,労働者を政治運動に組織して,階級間の協調によるリソルジメントの推進を図ろうとするものであった。
48年4月,市民の蜂起で解放されたミラノに入り,対オーストリア戦をサルデーニャ王国に依存することなく,人民の戦争として戦い抜くことを訴えた。49年ローマ共和国が成立して三頭政治の一人に選ばれ,短期間の運命ではあったが共和政府の指導に当たった。ローマ共和国崩壊後,再びスイスとロンドンに亡命し,フランスのルドリュ・ロランらと〈ヨーロッパ民主中央委員会〉を結成する。53年2月ミラノ蜂起に失敗して運動内部に分裂が起こるが,〈行動党〉を結成して危機を乗りきる。57年ピサカーネのサプリ(サレルノ近傍)遠征に呼応して,生地ジェノバで蜂起を試みるがこれも失敗に終わる。60年ガリバルディのシチリア遠征にはマッツィーニ派のメンバー多数が協力し,彼自身もナポリに赴いた。イタリア統一を目前にして,彼はローマに制憲議会を召集し,そこで新国家の建設を議論するという構想を抱いていたが,国家統一がサルデーニャ王国のイニシアティブによる立憲君主制の形態で,しかもローマとベネチアを除外してなされたことに反発して,また亡命の途についた。統一国家の成立した61年以後,ベネチアとローマの解放に努力を傾ける一方,労働組合の全国組織である〈イタリア労働者協会〉を通じて労働運動に強い影響を及ぼした。64年国際労働者協会(第一インターナショナル)の設立に際して,マルクスと対立し,のちにはイタリアのインターナショナル支部に勢力を伸ばしたバクーニンとも対立した。マッツィーニは古代のローマ帝国,中世のローマ教会に続いて,〈人民のローマ〉が19世紀ヨーロッパの中心としてよみがえることを追求し続けたが,その願いも空しく,70年イタリア国家がローマを併合して終わった。
マッツィーニはリソルジメントの最大の推進者であったが,現実の結果は彼の期待に反するものとなり,失意のうちに生涯を閉じた。徳富蘇峰は明治期の書《吉田松陰》でマッツィーニを松陰の精神と横井小楠の理想を併せ備えた人物として紹介し,また石川三四郎はマルクスとは別の労働運動観に立つマッツィーニの思想に関心を示した。
→リソルジメント
執筆者:北原 敦
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イタリアの革命家、思想家で、イタリア独立・統一運動(リソルジメント)の中心的人物。ジェノバに生まれる。ジェノバ大学で法律を学んだ。大学時代に秘密結社カルボナリ党に加わり、政治活動を開始した。1830年2月に逮捕され、1831年に亡命地マルセイユで共和主義と統一をスローガンとする青年イタリア党を結成した。1834年2月、一斉蜂起(ほうき)の突破口とするサボア遠征を企てたが失敗に終わった。同年4月、亡命地ベルンで神聖同盟に対抗する人民の同盟として超民族的な組織、青年ヨーロッパ党を結成した。1837年ロンドンに亡命し、彼の指導する革命運動は沈滞期を迎える。1839年ごろから行動を再開し、イタリア国内への運動指導を行った。第一次イタリア独立戦争期には、統一を優先し、政治体制の決定は戦争勝利後まで保留する方針をとった。ただ、ミラノの臨時政府のとったサルデーニャ王国への北イタリア併合という方針に反対し、共和制による統一を主張した。1849年2月に宣言されたローマ共和国では、三頭執政官の一人として、独裁的な地位を確保した。
共和国崩壊後、スイス、ロンドンに亡命したが、イタリアのリソルジメントの指導と並行してヨーロッパの民主主義運動の組織化に没頭した。イタリアでは、彼が1853年に結成した行動党を中心に、状況判断を欠く悲劇的な結末に終わる蜂起が繰り返されており、運動の勢力は著しく弱体化していった。これに対して、「イタリアとビットリオ・エマヌエレ」をスローガンとするカブールを中心とする穏和派の勢力が台頭してくる。1861年のサルデーニャ王国によるイタリア統一後、マッツィーニは、ローマ・ベネチアの併合、普通選挙によって選ばれた議会による憲法の制定などを主張する論陣を張った。また、第一インターナショナルの創設にも参加したが、理想的社会を資本家と労働者の友愛的連合と考え、社会主義理論を理解できなかった。ただ、リソルジメントのほぼ全期間を通じて、彼の不屈の統一理念は強く影響を与え続けた。
[藤澤房俊]
『マッツィーニ著、齋藤ゆかり訳『人間の義務について』(岩波文庫)』▽『森田鉄郎著『マッツィーニ』(1972・清水書院)』
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1805~72
イタリアの思想家,革命家。カルボナリに入り,1830年に投獄される。31年に亡命先のマルセイユで「青年イタリア」を結成し,諸国民からなる人類協同体の形成という理想のために,民主的な共和主義にもとづくイタリア民族統一を訴える。34年にジェノヴァで蜂起を企てるが失敗し,スイスに亡命して「青年ヨーロッパ」を構想。1849年にローマ共和国を樹立するがフランス軍に追放された。彼の蜂起の企てはことごとく失敗したが,その理想は多くの人々に影響を与えた。
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…1848年のミラノ革命には亡命中のフランスから参加。48‐49年の敗北後,その経験を総括して,独立と統一を最優先させるマッツィーニに対して,社会革命が民族解放に不可欠であることを主張して彼を批判。統一にフランスとの協力が必要とする点でもマッツィーニと対立。…
…31年,再びカルボナリ結社を中心とする中部イタリア革命が生じたが,この場合もオーストリア軍の介入で失敗に帰した。 31年革命の敗北を最後にカルボナリの時代は終わり,新たにマッツィーニによる青年イタリアの運動が始まる。立憲自由主義的性格のカルボナリに対して,青年イタリアは共和主義と統一主義を掲げた急進的な性格で,蜂起を主とする直接行動を盛んに試みた。…
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