カルロビツ条約 (カルロビツじょうやく)
17世紀末のオーストリア・トルコ戦争における神聖同盟(オーストリア,ロシア,ベネチア,ポーランド)とオスマン帝国との講和条約。1699年1月スラボニアのカルロビツKarlovitz(現,スレムスキ・カルロフチ)で締結された。戦争で大敗を喫したオスマン帝国はこの条約により,オーストリアにはハンガリー中央部,トランシルバニア,バチカ,スラボニアを,ポーランドにはドニエプル川右岸のウクライナ,ポドリアを,ベネチアにはモレア半島とダルマツィア沿岸地方を,ロシアにはアゾフを含むドン川河口地帯を割譲し,ヨーロッパにおけるオスマン帝国領の後退が始まった。しかし条約の交渉過程で神聖同盟諸国間に利害対立が目だち,仲裁国イギリスとオランダは,折しも勃発したスペイン継承戦争でオーストリアがフランスを攻撃するのを望んで交渉の妥結を急ぎ,またロシアの全占領地域の併合を妨げた。いずれにせよこの条約を境に東ヨーロッパにおけるオスマン帝国の優位・秩序は大きくくつがえされ,ヨーロッパ外交が主導するオスマン帝国領の分割問題がバルカンの政治動向を大きく規定するようになる。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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「カルロビツ条約」の意味・わかりやすい解説
カルロビツ条約【カルロビツじょうやく】
17世紀末のオーストリア・トルコ戦争により,1699年オーストリア,ロシア,ポーランド,ベネチアとオスマン帝国の間で締結された平和条約。カルロビツKarlowitzは現在クロアチアの町スレムスキ・カルロフツィ。オスマン帝国は再三にわたる侵攻で獲得したハンガリーの大半とバルカン北部の領土を関係国に返還し,従来の攻撃的立場を放棄し,弱体化する契機となった。
→関連項目レオポルト[1世]
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カルロビツ条約
カルロビツじょうやく
Karlowitz
1699年,ベオグラード北西のカルロビツでオスマン帝国とオーストリア,ベネチア,ポーランドの間に締結された講和条約。オスマン帝国はモレアとダルマチアの一部をベネチアに,カメネッツをポーランドに,ハンガリーの大部分とスロベニア,クロアチアの一部をオーストリアに割譲した。この条約によってヨーロッパにおけるオスマン勢力の後退が決定的となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のカルロビツ条約の言及
【露土戦争】より
…(1)18世紀前半まで [ピョートル1世]の改革によってロシア帝国は発展し,まずバルト海に進出し,南方においても,黒海への出口にあたるアゾフの領有をめぐって,黒海北岸の支配権を握るオスマン帝国と対立した。1699年[カルロビツ条約]で,ロシアは一時アゾフを獲得したが,北方戦争に敗れたスウェーデン王のオスマン帝国への亡命問題に端を発したプルート戦争(1710‐11)で,ロシア軍はオスマン帝国軍に包囲され,ピョートル1世は危うく捕虜となることをまぬがれるなど敗北を喫し,オスマン帝国はアゾフを奪回した。しかし,〈ポーランド継承戦争〉に関連してオーストリアと同盟したロシアは,再びオスマン帝国と戦端を開き(1736‐39),ベオグラード条約(1739)によってアゾフを最終的に領有し,トルコの黒海制海権を打破する糸口をつかんだ。…
※「カルロビツ条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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