日本大百科全書(ニッポニカ) 「キュナード・ライン」の意味・わかりやすい解説
キュナード・ライン
きゅなーどらいん
Cunard Line Ltd.
イギリス起源の海運会社。豪華客船クイーン・エリザベス号などで有名な同社は、海運の歴史を象徴するかのごとく起伏の多い歴史をたどっている。現在はアメリカの宿泊クルーズ船運航の大手企業カーニバル社Carnival Corp.&plcの傘下にある。
[安部悦生]
19世紀
創立者であるカナダ人のサミュエル・キュナードSir Samuel Cunard(1787―1865)は、早くからボストンなどで海運業に携わり、1812年ごろにはカナダのノバ・スコシア、ニューファンドランド、ボストン間の船による郵便配達業に従事していた。1839年には大西洋を挟む地域の郵便配達事業の契約を獲得し、翌1840年イギリス北アメリカ郵船会社British and North American Royal Mail Steam Packet Co.を創立。蒸気船によるリバプール―ボストン間の定期配送業務を開始してキュナードの名前を高めた。
1860年代になると、政府からの補助金が打ち切られて競争は激しくなったが、大西洋航路に加えて地中海航路を開拓し、事業は堅調であった。1878年には両航路の旅客・貨物輸送を統合してキュナード・スチームシップCunard Steam-Ship Co. Ltd.に改組、企業として組織を整備した(のち社名をキュナード・ラインに改称)。1880年代は同社として初めて鋼製船を就航させ、収入も年100万ポンドに達した。この鋼製船舶はすでに電気照明を有していた。
[安部悦生]
20世紀
1902年、アメリカのJ・P・モルガンが大西洋航路の独占を目ざして、インターナショナル・マーカンタイル・マリンInternational Mercantile Marine(IMM)を設立し、キュナード社にも参加を呼びかけた。キュナードがこれを拒否すると、大西洋航路は猛烈な価格競争に突入した。だがイギリス政府の支援もあり、キュナードはこの難局を無事に切り抜けることができた(のちにIMMは実質的に瓦解(がかい))。この後、キュナードは長年のライバル企業であったアンカー・ライン社やコモンウェルス・アンド・ドミニオンラインを買収し、その立場を強化していった。1905年には蒸気タービンを採用。1907年からは豪華客船ルシタニア号Lusitaniaやモーリタニア号Mauretaniaを就航させた。
第一次世界大戦が始まると、ほとんどの船舶は軍事用に転用されたが、ルシタニア号は民間用として従来と同様に大西洋航路を航行していた。1915年、同船がドイツ海軍の魚雷攻撃を受けて沈没し、アメリカ人乗客の多くが命を落とした事件をきっかけに、アメリカ世論が対ドイツ参戦に大きく傾いたことはよく知られている(ルシタニア号事件)。
当時、移民は客船の大きな収入源であったが、第一次世界大戦後アメリカが移民を抑制し始めると、キュナードの経営は圧迫されることになった。だがカナダは依然として移民優遇策をとっていたので、損失を軽減することができた。
1930年代に大不況が訪れると、キュナードの経営も不振となったが、ライバルのオーシャニック・スチーム・ナビゲーションOceanic Steam Navigation Co.(通称ホワイト・スター・ラインズWhite Star Lines)が倒産の危機に直面したため、1934年両社は合併し、キュナード・ホワイト・スター・ラインCunard White Star Line Ltd.となった(ただし、キュナード・ラインは持株会社として存続)。大不況のために業績はかならずしも順風ではなかったが、1936年にクイーン・メリー号、1940年にはクイーン・エリザベス号を就航させた。これらの豪華客船は世界最大級の規模を誇り、しかも最速で大西洋を横断したため人気を集め、業績の回復に貢献した。第二次世界大戦中はふたたび両客船とも軍に徴用されたが、ウィンストン・チャーチルのことばを借りるならば「両船のおかげで、第二次世界大戦を少なくとも1年は短くすることができた」のであった。
[安部悦生]
航空輸送との競合
しかし第二次世界大戦後になると、海運会社の最大のライバルである航空輸送が発達し始める。とくに航空機は旅客を海運会社から奪うことになった。キュナードは客船だけではなく貨物船も運行していたが、収益の比重が旅客に偏っていたために打撃は大きかった。キュナードも海から空へ事業領域を拡大ないしは転換する機会があったが、最大の航空会社であったBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)への参加を見送ってしまった。大西洋海路の旅客輸送は1958年にピークを迎えたのち衰退し始め、1965年には空と海の乗客比率は6対1になった。遅ればせながら、1959年にキュナードもイーグル航空Eagle Airways Ltd.を買収して空に進出したが、既存の航空会社の反発にあって活動は順調ではなかった。そのため英国海外航空会社British Overseas Airways Corp.(BOAC)と共同で、BOACキュナード社BOAC-Cunard Ltd.を設立し、30%の持ち分を得たが、新たに必要となったジャンボジェット機のための増資に対応することができず、1966年には株式を売却せざるをえなかった。
キュナード・ラインの1965年の売上げの50%は旅客であったが、1968年には20%に減少、1960年代末にはフラッグシップであったクイーン・メリー号やクイーン・エリザベス号を売却。じり貧化する事業の再建のために、キュナードは成長市場であったタンカー輸送業務に進出すべくH・E・モス社H. E. Moss and Co.やタンカー社Tankers Ltd.を買収したほか、保険会社を設立したりした。さらに貨物輸送の分野でも、のちにアトランティック・コンテナ・ラインAtlantic Container Line(ACL)などのパートナーとなった。1969年にはクイーン・エリザベス2世号を就航させ、この時点で合計3隻の客船、60隻の貨物船を有したが、経営的には振るわず、1971年イギリスのコングロマリットであるトラファルガー社Trafalgar House Investments Ltd.に買収された。その後キュナードはBAなどと組んで、大西洋を、片道はクイーン・エリザベス2世号で、片道は超音速旅客機のコンコルドで、というパッケージを1984年から売り出したが、大きく業容を立て直すには至らなかった。
1996年になると、親会社のトラファルガーがノルウェーの造船・機械企業であるクベルナーKvaerner ASAに買収され、翌1997年キュナード・ラインの本社はニューヨークからマイアミに移された。さらに1998年にはアメリカのカーニバル社に吸収され、現在はマイアミをベースとする海運会社として同社の一部門を構成している。親会社であるカーニバル社の2008年の売上高は146億4600万ドル、純利益は23億3000万ドル。
[安部悦生]
『中村庸夫写真、ヒサクニヒコ絵・文『写真集 クイーンエリザベス2のすべて』(1989・日本出版社)』▽『野間恒著『豪華客船の文化史』(1993・NTT出版)』▽『デニス・グリフィス著、粟田亨訳『豪華客船スピード競争の物語』(1998・成山堂書店)』▽『Frank O. Braynard, William H. MillerPicture History of the Cunard Line, 1840-1990(1990, Dover Publications, New York)』▽『Ronald W. WarwickQE2 ; The Cunard Line Flagship, Queen Elizabeth 2(1999, W. W. Norton & Co., New York)』