航空機を用いて人、貨物、郵便物等を輸送すること。航空運送、空運ともいう。鉄道輸送、自動車輸送、陸上輸送あるいは海上輸送などに対するものである。
第二次世界大戦後、航空機が目覚ましい発展をみせ、高速性、経済性、安全性の優れた輸送手段として成長した。国際間輸送あるいは中・長距離の国内都市間輸送において航空輸送は急速な拡大をみせ、そのため航空輸送の政治的、経済的、文化的、生活的役割がきわめて大きくなった。地球的規模で拡大した今日の社会構造は、航空輸送を抜きにして考えることはできない。
[秋葉 明]
航空輸送は次のような特性をもっている。
まず第一に高速性である。航空機の巡航速度は、ジェット旅客機で時速700~900キロメートルである。離着陸のための時間、搭乗手続きの時間、アクセス交通に要する時間などを考慮すると、近距離では、他の交通手段(鉄道や自動車)と比べての利便性は発揮できないが、中・長距離での時間短縮効果は大きい。
第二に快適性である。とくに旅客輸送では重要な要素である。初期のプロペラ機は一般に飛行高度が低いために気流が悪い場合には不安定であったが、ジェット旅客機では気流の安定した高層を飛行するため安定した飛行が可能で、快適性が向上した。
第三に需要への対応性である。自動車や鉄道は通路の制約が大きく、計画してから供用するまでには多くの費用と時間を要するのに対して、航空輸送は空港を整備すれば、自由に需要に対応して運航距離の制約も受けずに路線の設定、輸送規模の拡大化が可能である。
第四に経済性である。航空輸送は、かつては運賃が高く、利用することができたのは一部の特別な人々という時代もあった。しかし、現在では、航空機のジェット化、大型化により単位当りの費用が大きく低下して、誰もが利用することのできる交通手段となった。そのため、開発途上国や人口の拡散した地域では、新たに鉄道や道路などを整備するよりも、空港を整備し航空輸送を確保することを優先する動きがみられる。
第五に大量性である。航空機は大型化されてきた。日本の国内航空輸送で最大規模の航空機ボーイング747D型機では定員565人であった。さらに一部の国際線で運行されているエアバス380型機は2階建てで、最大800人規模の搭乗が可能である。このように1回当りの輸送規模は鉄道輸送にも劣らないまでになっている。
対価を得て航空輸送を行う事業が航空輸送事業である。そのうち、あらかじめ路線を定め、運賃と運航時間を公表し、誰もが利用することができるのが定期航空輸送事業で、旅客や荷主の需要に応じて随時運航するのが不定期航空(チャーター航空)輸送事業である。
航空輸送事業の特性をみると以下のようである。まず、航空機メーカーが定めた運航・整備技術を修得すれば運航は可能であり、運航技術の導入は比較的容易である。これまで成長性がきわめて高く、今後も市場の拡大が期待されている。企業規模の大小にかかわりなく、一定の収益を生み出すことが期待され、それは新しく参入する小規模の航空企業でも、既存の大手の企業に対して競争力をもつことが可能であると考えられている。航空輸送事業の費用は人件費、燃料費、空港の使用に伴う経費等、多くが変動的経費であり、事業の閉鎖時に回収が不可能な埋没費用がきわめて少ない。それは事業に対するリスクが相対的に小さく、新規参入が比較的容易といえる。航空輸送事業が成立するためには集客、空港整備、航空管制、空港アクセス交通の整備等が必要であるが、航空会社は空港間輸送の部分についてのみ責任をもち、国、地方自治体、他の民間企業が周辺機能を担っている。このような特性から、航空輸送事業は潜在的には激しい競争が行われる性格を有している。主要な国際航空輸送は、これまで長い間、国を代表する限られた、いわゆるナショナルフラッグ・キャリアーが政府の保護と規制のもとで運航を行ってきた。しかし、不定期航空やナショナルフラッグ以外の航空会社の成長、各種の規制緩和政策の推進によって、1990年代に、大きく航空輸送秩序が変化する時代を迎えた。とりわけ、独自の運航スタイルや、インターネットの普及によって可能となった旅行会社などの仲介業者を介さない販売システムなどを構築し、低コストで低運賃を実現したLCC(ローコストキャリア)とよばれる新しい航空会社の出現が、大きな影響を与えつつある。
[秋葉 明]
1903年ライト兄弟が、固定翼とガソリンエンジンとを組み合わせた飛行機で初飛行に成功し、人類は航空輸送手段を手に入れることができた。その後しばらく飛行機の研究は、フランスを中心とするヨーロッパにおいて盛んとなり、軍の支援や懸賞金をかけた冒険飛行により飛行機が急速に発展した。
1914年から1918年にかけての第一次世界大戦において、飛行機は大きな役割をみせた。偵察機、戦闘機、爆撃機として、より飛躍的に性能が向上した。大戦後は、大量の軍用航空機を活用した航空輸送事業の展開がみられるようになった。大型爆撃機が改造され旅客や郵便物の輸送が開始された。とくに、植民地政策を推し進めたヨーロッパ諸国では自国の航空会社を保護・育成した。しかし、自由な航海を原則とした海運とは対照的に、1919年の国際航空条約(パリ条約)においては空の自由は認められず、領土の上空域についてはその国家の完全かつ独占的な主権が与えられ、大きく制限されたスタートとなった。
第二次世界大戦で航空はさらに重要な役割をみせた。高速・高性能の戦闘機、都市破壊のための大型爆撃機、戦略物資のための輸送機が開発され、戦争の命運を左右した。それはそのまま第二次世界大戦後の大型旅客機の開発に直結した。また、空港施設やレーダーなどの航空輸送を支援する技術も開発され、航空輸送の安全性、経済性が向上した。とくに、戦争中に開発されていたジェット機が実用化され、大型空中給油機を基本としてボーイング707型機、ついでダグラスDC-8型機と民間ジェット旅客機が相次いで登場した。この結果、国際航空輸送における提供座席数は飛躍的に増大した。またアメリカの景気拡大と、アメリカ政府のヨーロッパ復興策の一環としてヨーロッパ観光旅行が奨励されたことから、アメリカ人が大量に大西洋を渡ってヨーロッパへ観光旅行をするようになった。
さらにファンエンジンの開発で中短距離においてもジェット化が可能となり、離着陸性能の優れた主翼の開発などによってボーイング727型機、737型機、ダグラスDC-9型機などのジェット旅客機が中・短距離線で活躍するようになった。そして安全性、快適性が増し、輸送量の大幅な拡大、航空機の運用効率が向上することによって生産性が大きく向上した。実質運賃の低下が実現し、航空利用が一部の利用者に限られず、しだいに大衆化していった。
民間航空機は市場のニーズに対応して開発されてきたというよりは、むしろ技術優先、軍事目的の民間への転用ということで開発されてきた面があり、1970年に就航したボーイング747型機もその例の一つである。アメリカ政府の戦略輸送機開発計画をきっかけとし、ボーイング社の軍用機の設計を民間機に転用したものである。そして、それまでの市場規模をはるかに上回る大型機の出現によって、それに見合った輸送需要の開発を迫られるようになり、運賃水準、運賃制度、販売体制の見直しが求められた。そこで注目されたのが価格弾力性の大きい観光需要の開発であった。国際観光が飛躍的に拡大した要因は、航空機の大型化によるところが大きかったのである。日本の海外旅行が拡大したのもこの時期であった。
ヨーロッパにおいては、ドイツ、イギリス、スカンジナビア諸国などの経済的に豊かな主要地域と、あふれる太陽、暖かい気候、青い海に恵まれた地中海地域の観光地とを低コストで結ぶチャーター航空が大きな役割をみせている。1960年ごろからイギリス、ドイツ資本によるスペイン、イタリア、ギリシアなどでの大規模な観光開発が開始された。それを支えているのは運賃の安さを魅力としたチャーター航空である。かつては一部の富裕な人々だけのものであった海浜リゾートを誰もが楽しめるものとしたのである。
[秋葉 明]
第二次世界大戦後の国際航空輸送体制を形成したのは1944年のシカゴ会議である。そこでは航空に関する原則を定めた国際民間航空条約が締結され、さらに国際航空を管理する機構である国際民間航空機関(ICAO(イカオ))が設立された。また国際航空業務通過協定により民間航空機の領空通過や技術的着陸についての合意が形成された。これらにより航空輸送のための基礎的な条件が整備された。しかし、会議を主催したアメリカの最大のねらいであった商業航空権を巡っては決裂した。第二次世界大戦中に航空輸送力を伸ばし、かつ各地に植民地をもたないアメリカは、空の通行の自由と大幅な航空輸送の自由とを求めた。それに対して、大戦で産業が荒廃したイギリスを始めとするヨーロッパ諸国は、アメリカによる国際航空輸送の拡大と支配とを恐れて、制限的な航空輸送の体制を望んだ。この結果、航空輸送については、多国間による協定ではなく当事国間の二国間協定によるものとなった。二国間協定では、基本的には保護主義的な姿勢が反映され、また輸送力については厳格な統制を課す場合が多かった。一方、1945年に定期航空会社を正会員とする団体で、航空運送に関する会社間の調整、協力などを図ることを目的とした国際航空運送協会(IATA(イアタ))が設立されたが、そのもっとも重要な業務は、航空運賃の設定である。これは基本的に事業者の利益を擁護するものであった。こうして、国際航空輸送においては航空権益は国によって保護され、運賃についてもIATA運賃が尊重されてきた。そして各国とも国益を代表するものとしてナショナルフラッグ・キャリアーを保護育成した。二国間協定において運航企業が限定され、新規参入の脅威が存在しない状態では、企業間の競争によるサービスの改善がなされないばかりか、企業間で各種の取決めがなされる場合が多かった。その結果、企業間の交渉によるIATA運賃は、効率的な航空企業のコストよりも、高コスト企業の費用水準を基に決定されがちとなる。異常に高い運賃が決定される可能性があると同時に、費用削減の必要性を航空企業に求めないことになる。このような運賃は、低廉な運賃を提供するチャーター航空会社の増加をさらに促進する要因にもなった。
[秋葉 明]
アメリカにおいては民間航空法(Civil Aeronautics Act of 1938)に基づいて民間航空委員会Civil Aeronautics Board(CAB)により、規制と保護とが行われていた。しかし、現実には、利用率の低下、航空企業の収益性の低下、高い運賃等と規制の目的は達せられず、航空政策への批判的な動きが高まった。また、経済学者が規制を緩和し競争を促進することの意義を主張し、大手航空事業者のなかでも、ビジネス・チャンスの拡大を求めて規制緩和に賛成する会社も現れた。そして、カーター政権下において、国内航空事業一般の規制緩和を目的とした1978年航空規制緩和法(Airline Deregulation Act of 1978)が成立し、参入規制と価格規制の撤廃が実施された。国際航空の分野でも「オープンスカイ政策」を公表し、すべての路線への参入の自由、すべての路線の制限撤廃、運賃決定の自由化を主張し、二国間航空交渉による自由化の促進を強く求めるようになった。
この規制緩和政策を受けて、航空企業の新しい戦略が生み出された。その一つがハブアンドスポークとよばれる運航システムである。良好なハブ空港(車輪のスポークが中心のハブに集まるように、拠点となる空港)を確保し、そこでは固定的な費用が大きく、乗客は乗換えを必要とするが、利用可能な便数は増え、一つの航空企業でも広範囲の輸送需要に対応することができるようになった。また、CRS(コンピュータによる座席予約システム)により、きめ細かな運賃戦略がとられ、全体の収益性を高めることが可能となった。さらに、利用回数が多く収益性に貢献するビジネス旅客をフリークエント・フライヤーズ・サービス(搭乗した距離によって特典的なサービスが受けられるもの)によって引き付けた。その結果、大規模な航空企業が有利となり、航空産業もスケールメリット(規模が大きいことによる収益性の向上)のある産業に変化した。競争が路線ごとのサービス競争ではなく、企業間競争となったのである。
大西洋路線では規制緩和政策によって、それまでの不定期航空企業が定期航空部門に進出する動きもみられたが、既存の定期航空会社が多様なサービスを提供することによって、観光利用者をも吸収したため、低運賃だけを武器にしていたこれらの企業は苦戦することになった。
競争の激化によって多くの航空会社の経営が悪化する一方で、航空の寡占化が進んだ。国内航空路線に数多くの拠点をもつ大手企業(アメリカン航空、ユナイテッド航空、デルタ航空が主要3社)が、国内航空ネットワークの再編、CRSネットワークの整備などで着実に国内基盤を固めて国際線にも進出した。一方では、国内拠点に乏しく、高コストの国際路線を多く有する企業が後退し、国際路線権などが特定企業へ集中した。かつてはアメリカを代表する航空会社であったパン・アメリカン航空(パンナム)も1980年代に経営危機に陥り、路線権のうち太平洋路線と大西洋路線の一部はユナイテッド航空に、その他の路線の大部分をデルタ航空に売却、またTWA(トランスワールド航空)のロンドン線がアメリカン航空に売却された。そして、1991年にパンナムが、ついで国内大手のイースタン航空が消滅した。なかには外国企業と連携で生き残りを模索する航空会社も出現している。そして、航空企業が生き残るためにはメガ・キャリアー(巨大航空企業)化が必要であるとの認識から、世界的規模での航空企業間の提携・集約化の動きが活発化した。
しかし、2001年の同時多発テロ、燃料高騰、アメリカ経済の停滞などで航空会社は岐路に立たされた。大手主要会社は軒並み赤字となり、大幅な人員整理がなされ、USエアウェイズ、ユナイテッド航空、ノースウェスト航空など破産法の適用を受ける会社が続出した。その後立ち直りをみせてはいるが、低価格化競争がいっそう進む結果となった。
その一方で、LCCが急速に成長している。大手の航空会社があまり運航しない、中・短距離直行型の便を提供し、大手航空会社が利用する中心的な空港ではなく、やや遠隔地にあって不便でも混雑の少ない空港を活用し、使用料の圧縮に加えて搭乗手続きの簡素化・短時間化を実現したほか、職員の多機能化等による航空機の地上滞在時間短縮化、単一小型機材の使用など、複合的な低コスト化を図り、それによる低運賃を実現している。当初は一部の限られた市場にとどまっていたものの、仲介業者を介さないインターネットによる直接販売が実現すると、チケットレス化や、高い搭乗率を確保するためのさまざまな運賃施策がなされ、価格を重視する若年層の利用拡大などにより大手航空会社を脅かす存在になりつつある。LCCを代表するサウスウェスト航空は、利用人数では世界最大の航空会社となった。
[秋葉 明]
イギリスの航空政策は、1979年のサッチャー政権の登場により大きく転換した。保守党政府は自由経済と競争政策によって斜陽化したイギリス経済の立て直しを目ざしたが、国際航空政策の面では、外国企業と競合しうる複数企業体制の育成、国際線市場での規制の緩和と新規参入の促進、国内線市場での参入や運賃や供給量の規制の廃止、競争阻害的または収奪的航空会社の行動に対する防止策の設定、BA(イギリス航空)の民営化などを打ち出した。オランダを始めとして各国ときわめて自由化の進んだ新しい二国間航空協定を締結し、自由化を推し進めた。
EU(ヨーロッパ連合)では域内の国際定期航空を対象とし、当初はアメリカ型の規制緩和ではなく、二国間協定や事業者間の協力体制という、それまでの規制制度に基づきながらの自由化を推進する方策を進めてきたが、1997年からはヨーロッパの航空会社による、域内の大幅な自由な運航が実現している。EU籍の航空免許をもつ企業に対して、自国に関係しない三国間輸送の制限を撤廃するなどした結果、主要幹線に中小航空会社が乗り入れ、低運賃、高サービス、高頻度の運航、目的地の増加などの競争激化がみられた。こうした状況下、歴史の長かったサベナ・ベルギー航空やスイス航空が競争に敗れて姿を消していった。しかし当初は、空港や空域など運航に必要な条件への制約が大きく、また大手航空会社がコストカットなどの経営合理化を図り、競争回避のために国内の中小航空会社との合併を選択するなどしたため、大手企業のシェアを巡っては劇的な市場変化は起きなかった。むしろ、それまで低コストで運航していたチャーター専門の航空企業が定期航空部門へ進出したものの、集客力が劣り、発着時間枠の確保がむずかしかったり、施設配分での不利益を受けるなどによって経営不振に陥るなどの例がみられた。
しかし、低コスト化による低運賃を実現したLCCの拡大が、ヨーロッパの市場を大きく変えつつある。その代表的な航空会社がアイルランドのライアンエアーである。加えて、特異な運航路線も開設し、これまでの定期航空路線を利用しなかったような低所得者、移民、休暇利用者という新しい市場も獲得しつつある。さらに、イギリスのイージージェットなど、輸送人員ではヨーロッパ域内の大手航空会社を上回るほどになり、LCC合計では全体の概ね4割のシェアとなっている。それに対抗して、大手航空会社は長距離路線に特化したり、自らLCCタイプの子会社を設立するなどしている。
[秋葉 明]
第二次世界大戦後しばらくは、占領政策に基づき日本人による航空輸送は禁止されていた。ようやく1951年(昭和26)から国内航空会社が容認され「(旧)日本航空株式会社」がノースウェスト航空から3機をチャーターして営業を開始し、東京―大阪―福岡、東京―札幌間を運航した。しかし、翌年の「もく星号」事故を契機に、自主運航の機運が高まり、政府の援助により新たな「日本航空株式会社(JAL)」が発足し、本格的な国内航空輸送が始まった。その後いくつかのローカル航空企業が誕生したが、経営不振により、1958年には全日本空輸に、1964年には日本国内航空(後、日本エアシステム)に集約されて主要3社体制が形成された。2004年(平成16)には日本航空と日本エアシステムが統合(日本航空となる)し、2社体制となっている。ジェット機が導入され輸送量も拡大したが、1966年(昭和41)、1971年に連続事故が発生し航空輸送体制の不備と航空経営の脆弱(ぜいじゃく)性が露呈し、航空政策は分野調整を通じて航空会社の保護・育成に努めた。昭和40年代には空港の整備も急がれ、ローカル空港のジェット化が進み、1974年に国内線にも本格的な大型機が導入されて大量・高速化の時代を迎えた。また、1978年には新東京国際空港(現成田国際空港)が開港され、首都圏関連の国内線・国際線での増便が可能となった。この間、大型化が利用量の増大をもたらし、同時にコストの低下による実質運賃の低下という好循環をまねき、航空輸送は急速な拡大をみせた。
1985年の日本貨物航空の乗り入れ問題から、日米交渉の結果、乗り入れ会社、乗り入れ地点、便数を増加させることで合意し、日本航空以外の航空会社でも国際定期航空路線への就航が可能となった。これにより、それまでの規制的な航空政策についての見直しが必要となり、自由化を目ざした航空政策へと転換し、国際線の複数社化、日本航空の完全民営化、国内線の競争促進化を骨子とする各社の路線網の拡充や新規航空会社の参入が推し進められた。また運賃についてもとくに1990年代後半になって規制緩和が急速に進んだ。
航空政策の自由化が進むなかで、日本の航空会社は厳しい試練を受けている。最大の要因は日本経済そして世界経済の長期的低迷であり、そこにテロ事件や国際紛争、感染症の流行などが重なり、日本発着の利用者は低迷している。日本に乗り入れる外国の航空会社との運賃・サービス競争が激しくなる一方で、国内航空も伸び悩んでいる。日本航空と日本エアシステムは2002年(平成14)に経営統合の道を選んだが、安全運航に疑問をもたれる事象が連続して発生したこともあり、良い結果は得られなかった。ついに2010年1月に経営破綻し、会社更生法のもとで経営再建が進められた。また、新規に誕生した航空会社のなかからも経営破綻する企業も相次いで現れたが、今後の成長も期待されている。さらに、2010年10月に羽田空港のD滑走路が完成し、新国際線旅客ターミナルが供用されたことによって、発着枠の大幅な拡大が実現し、国内線、国際線とも順次増便が実施されていることから、さらに競争が激化している。
[秋葉 明]
2009年度(平成21)の国内航空の利用人員は約8387万人である。もっとも利用の多い路線は東京―札幌線の904万人で、これは世界でもっとも利用の多い路線である。ついで東京―福岡線750万人、東京―大阪線521万人、東京―那覇線512万人などとなっている。国内航空の特性の一つは、東京国際空港(羽田空港)と大阪国際空港(伊丹(いたみ)空港)、関西国際空港に関連する利用者の割合が全体の約79%と、限られた特定空港への利用が集中していることである。また、幹線とローカル線でみると、幹線は47%を占めており、輸送密度がきわめて高い。航空会社別では、全日本空輸(46%)、日本航空(37%)となっている。東京―福岡線、東京―札幌線で低運賃を売り物にした新規参入の試みがあるものの、スカイマーク(3.9%)、日本トランスオーシャン(2.9%)、北海道航空(2.8%)などにとどまっている。
航空利用者の構成は長い間、業務目的の中高年齢層の男性が大きな割合を占めていた。国内航空は頻繁に利用する特定の利用者層に支えられて発展してきた面があり、観光目的の利用者が圧倒的に大きな割合を占める国際線とは対照的であった。これは、発着能力において空港の制約が大きく、競争も不十分であったことなどにより、国内航空運賃が相対的に高かったことが理由にあげられる。そのため近距離国際線を利用した海外パッケージ旅行が、国内旅行より安いということが珍しくなかった。しかし、しだいに競争が激化するにしたがって国内航空運賃も多様化し、提供座席数も増加したことなどから、観光や私用目的の利用割合が増加傾向にある。
また、一方では鉄道との競争がある。国内航空利用者の平均利用距離は896キロメートルであるが、これは、新幹線でほぼ4時間の東京―広島間に匹敵するものであり、鉄道との競合の範囲にあるといえる。在来線を改良した山形新幹線、秋田新幹線の開通に続いて、高規格の東北新幹線と九州新幹線が全線開通し、大幅に時間短縮した。青函トンネル経由で青森―函館間をつなぐ新幹線や北陸新幹線の工事も進んでいる。乗車時間が4時間以内になると鉄道利用が増加することが知られており、今後さらに航空と鉄道との競争が激しくなることが予想される。
[秋葉 明]
航空会社の経営における費用構成をみると、世界の航空会社はほぼ共通の航空機、空港を使用し、同様な路線を運航しているため、燃料費、空港使用料、減価償却費などの費用はほぼ共通である。しかし人件費は国ごとに大きな差異があり、アメリカ、ヨーロッパ、日本の航空会社は人件費の割合が20~30%を占めるのに対して、東南アジアの航空会社では10~15%となっている。それでも、日本の航空会社は、日本人のマーケットがこれまで拡大をみせていたことから、いわば高コスト、高品質のサービスを提供することによって存立してきたといえる。また空港の発着能力等の制約条件が厳しかったことから、結果的には高密度の輸送が行われてきたという面もあった。しかし、しだいにサービスそのものに差異がなくなりつつあること、利用者自身も利用経験が増すにつれ、外国の航空会社利用への抵抗感が大きく薄らいできたことなどから、日本の航空会社としての特異性が後退している。これまではジェット化、大型化をいっそう進めることで費用の低減を図ってきた。とくに大型機による運航は、高密度で競争が回避された市場では有効であった。そのため、日本の航空会社は大型のジャンボ機、ハイテク機をいち早く導入してきた。これは、競争の激しいアメリカで、都市が分散し、輸送密度が低いということがあるものの、小型機による高頻度の運航が主体となっているのとは対照的であった。
しかし日本の航空会社も、羽田空港の整備が進み大幅な増便が可能になったことなどから、これまでの主力機であった大型のジャンボ機にかえてボーイング777型機やボーイング787型機などの中型機による多頻度運航にシフトする方向にある。
これまでも航空会社の収益性はけっして高くはなかった。そして航空産業は、コスト構造、需要構造の変化を大きく受けやすい性格をもち、技術革新に伴う投資の拡大、燃料費の高騰等コストの上昇が大きかった。しかも、しばしば競争の激化による運賃低下がみられ、また、景気の後退による需要の減少もあった。そのため今後の航空企業が生き残るためにはメガ・キャリアー化が必要であるとの認識から、航空企業間の提携・集約化の動きが活発化している。とくに、異なった航空市場をもつ航空企業間の提携の動きが多い。
規制緩和を推進する国々の背景には、航空輸送業界が規制緩和されれば、自国の航空企業の体質が改善されることも含めて、一定の競争力の優位性が確保されるであろうという自信、あるいは信頼がある。その点で日本の航空政策は、国内にあっては、いかに航空企業を育成するのか、国際的には、いかに日本の航空企業の輸送権益を維持拡大するのかにあった。とくにアメリカとの間においては、第二次世界大戦後の民間航空輸送が開始された当時の特異な状況を大きく反映して、アメリカ側の輸送権益が過大であるということが日本側の基本的な認識であった。それはアメリカ側の認識と一致しないため、交渉はたびたび難航してきた。国際航空輸送においては、長い間、日本航空1社に限定されてきたが、世界的な規制緩和の動きと、日米航空交渉の過程で複数企業の運航が本格的に認められる一方、提供座席数に占めるアメリカやその他の外国の航空会社の割合が大きく高まってきた。また、円高によって日本の航空会社のコスト競争力が失われ、競争の激化と、実収単価の低下によって経営の悪化をもたらした。今後の日本の航空輸送発展のためには、航空企業の生き残り戦略が課題となっている。
国内航空においても規制緩和政策の進行によって、運賃規制の緩和および低運賃を武器とした新規参入の航空会社が出現し、その影響も大きい。既存の航空会社も対抗策を打ち出してきたため、運賃の値下げ競争を始めとして、新規参入の航空会社自体もその生き残り戦略はむずかしい。このように、航空を取り巻く環境は厳しく、世界的にみても航空業界の経営状況はけっして順調ではなく、世界の航空企業は生存を賭けた再編成の時代にあるといえよう。
[秋葉 明]
『航空政策研究会編『現代の航空輸送』(1995・勁草書房)』▽『ドガニス・R著『国際航空輸送の経済学』(1995・成山堂書店)』▽『経済協力開発機構編『国際航空輸送政策の将来』(2000・日本経済評論社)』▽『塩見英治著『米国航空政策の研究――規制政策と規制緩和の展開』(2006・文眞堂)』▽『村上英樹、加藤一誠、高橋望、榊原胖夫編著『航空の経済学』(2006・ミネルヴァ書房)』▽『井上泰日子著『新・航空事業論――エアライン・ビジネスの未来像』(2010・日本評論社)』
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新